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ピーテル・パウル・ルーベンス『我が子を喰らうサトゥルヌス』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年03月10日(木)15時02分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年3月10日


目次
1. ウラノスの予言
2. 故国フランドルの投影
3. 原題


『我が子を喰らうサトゥルヌス』については、2010年11月23日(火)の記事『フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』 loro2012.blog.fc2.com』で、ゴヤ(1746-1828)の描いた同名の作品を取り上げたことがあります。

今日は同じ主題で、ピーテル・パウル・ルーベンスの作品を取り上げます。

2011年3月10日ピーテル・パウル・ルーベンス『我が子を喰らうサトゥルヌス』710

1. ウラノスの予言


サトゥルヌスは、ギリシア神話ではクロノスに相当します。

ガイアは夫ウラノスがキュクロプス族とヘカトンケイル族をタルタロスへ送り込んでいることを知り、激怒します。

ウラノスへの敵意を抱いた妻ガイアは、ティタン族12神の末弟クロノスに命じてウラノスを殺害させました。

クロノスはウラノスの子供です。
息子による父親殺しが、母の命令により実現してしまったわけです。

ウラノスは、死ぬ間際にクロノスに不吉な予言を残しました。

「お前も私同様、子供に殺されるであろう。」

クロノスはこの後、父ウラノスから聞かされたこの言葉に悩まされ続けることになります。

クロノスは、ティタン族12神の内の一柱(ひとはしら)であるレアと結婚していました。
そして二人の間には、ヘラやハデスなど多くの子供が誕生してきます。

系譜を示します。

ウラノス→クロノス→ヘラ


クロノスは、妻レアが生んだ子供たちを次々に飲み込んでいきます。

自らの体内に子供たちを飲み込んでしまえば、子供によって殺されることはないと考えたわけですね。
飲み込まれた子供は、長女ヘスティア、デメテル、ヘラ、長男ハデス、次男ポセイドンです。


2. 故国フランドルの投影


ルーベンス(1577-1640)が描いているのは、泣き叫ぶわが子の胸部にかぶり付いているクロノスの姿です。

この子を生かしておけば自分が将来殺されるであろうという妄想から、このような蛮行に及んでいるわけです。

クロノスが老齢に差し掛かっていることは、白髪や髭から窺(うかが)い知れます。

しかしその割には肩・腕・脚の筋肉は衰えることを知らず、悲劇を生み出す要因になってしまっているのです。

大地を踏みしめる巨人に捕まり無抵抗のまま殺されて行く幼子は、オランダと争いスペインには支配される故国フランドルの弱い姿を表現しているのかも知れません。


3. 原題


ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)が描いた『我が子を喰らうサトゥルヌス』は、スペイン語ではSaturno devorando a un hijoと言います。

un hijoは一人の息子という意味です。
devorar Zは、Zを貪(むさぼ)るという意味です。

この題名では現在分詞のdevorandoが使われていますので、「息子を貪っているサトゥルヌス」と訳すことが出来ますね。

この作品はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)に所蔵されています。


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ヴィジェ=ルブラン『エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年02月13日(日)13時21分 | 編集 |
2011年2月13日(日) 


目次
1. ロココの百合
2. 原題


今回取り上げる作品は、ヴィジェ=ルブラン作『エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン』です。

2011年2月13日ヴィジェ=ルブラン『エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン』403

1. ロココの百合


マリー・アントワネットを描いた画家ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)の美貌は、自画像の中に残されています。

ヴィジェがこの自画像を制作したのは1782年のことですので、彼女が27歳の時ということになりますね。

円(つぶら)な瞳、小さな口、透き通るような首筋、膨(ふく)よかな胸・・・、

この容姿を見るだけで十分神から祝福されている女性と言えますが、その上画才まで身に備えているのです。

神からニ物を与えられた女性が、ロココの時代のパリに存在したわけです。

赤い大きなリボンや白い衣服の襟元の立体感は、彼女が写実的な表現力に恵まれていたことを示しています。

そして、この時代の画風であった優美さや繊細さも、美しい髪の1本1本に見事に表されています。

ヴィジェの可憐な美しさは、ヴィジェ自身の手によって忠実に絵画の中に再現されているのです。


2. 原題


ヴィジェ=ルブラン(Vigée Le Brun)の自画像『エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン』は、フランス語ではElisabeth Louise Vigée Le Brunと言います。

この作品は、アメリカのテキサス州フォートワースにあるキンベル美術館(Kimbell Art Museum)に所蔵されています。






フランソワ・ブーシェ『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年02月06日(日)13時58分 | 編集 |
2011年2月6日(日)


目次
1. アイルランド人モデル
2. 鹿の園
3. 原題


今回取り上げる作品は、フランソワ・ブーシェ作『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』です。

2011年2月6日フランソワ・ブーシェ『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』271

1. アイルランド人モデル


フランスの画家フランソワ・ブーシェ(1703-1770)が描いている女性は、マリー=ルイーズ・オミュルフィ(1737-1814)です。

オミュルフィの父はアイルランド人で、生まれはルーアンとされています。

ブーシェがこの作品を制作したのは1751年です。
ヌードモデルを務めているオミュルフィは14歳ということになりますね。


2. 鹿の園


ブーシェが活躍した頃のフランス国王はルイ15世(在位:1715-1774)です。

ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人(1721-1764)は、ヴェルサイユの森に鹿の園(Parc-aux-cerfs)と呼ばれる娼館を建てました。

鹿の園とはルイ15世に性的な奉仕を行う女性が一定期間暮らす場所でした。
オミュルフィも鹿の園で暮らした時期があります。

ルイ15世はブーシェの描いたこの官能的な肉体に強い興味を示し、オミュルフィを鹿の園へ招くよう命じたという説もあります。

オミュルフィは1753年に鹿の園で暮らすようになりました。
オミュルフィが16歳の時です。

ルイ15世(1710-1774)は43歳だったわけですね。

鹿の園は、集められた女性たちが長期間に渡って囲われ続けるような施設ではありませんでした。

比較的短期間でお役御免となり良縁を紹介されたり年金を支給されたりと、ある程度の身分保障は行われていたようです。

オミュルフィはルイ15世の子供を二人産んで、年金を支給されながら余生を送ったと言われています。

オミュルフィ(1737-1814)が52歳の時にフランス革命が起きました。
ナポレオン1世(在位:1804-1814)が失脚した時には、オミュルフィはまだ存命でした。

オミュルフィはフランスの激動の時代を生き抜いたわけですね。


3. 原題


フランソワ・ブーシェ(François Boucher)が描いた『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』は、フランス語ではMarie-Louise O'Murphyと言います。

この作品は、ドイツ西部の街ケルン(Köln)にあるWallraf-Richartz-Museum & Fondation Corboudで見ることが出来ます。






フランソワ・ブーシェ『高級娼婦』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年02月03日(木)14時45分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年2月3日(木) 


目次
1. オダリスク
2. 原題


今回取り上げる作品は、フランソワ・ブーシェ作『高級娼婦』です。

2011年2月3日フランソワ・ブーシェ『高級娼婦』274

1. オダリスク


フランスの画家フランソワ・ブーシェ(1703-1770)が描いているのは、高級娼婦の官能的な姿態です。

モデルとなっている女性は、臀部を露(あらわ)にして膝を開くという大胆な姿勢を取っています。

太股(ふともも)から膝の裏にかけての艶(なま)めかしさが彼女の持ち味です。
同じ姿態を取ったとしても、貧相な太股ではここまでの色香を発することは出来ないと思われます。

この膝の開き方だと見る角度によっては女性の秘部がハッキリと見て取れるかも知れません。

ブーシェはこの作品においては、女性の最大の武器である乳房を描いてはいません。
しかし、乳房なしでもここまで肉感的に女性の裸体を表現出来ることを示したわけです。


2. 原題


フランソワ・ブーシェ(François Boucher)が描いた『高級娼婦』は、フランス語ではL'odalisqueと言います。

l'odalisqueは幾つかの語義がある名詞です。
ハーレムの女という訳を当てる場合も多いですが、このブログでは高級娼婦としました。

この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。





ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月29日(土)15時49分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年1月29日(土)


目次
1. 史実
2. 原題


今回取り上げる作品はウジェーヌ・ドラクロワ作『キオス島の虐殺』です。

2011年1月29日ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺』395

1. 史実


フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)が描いているのは歴史的な事実です。
1822年4月にギリシアのキオス島で大虐殺事件が起こりました。

当時のギリシアはオスマン・トルコ帝国(1299-1922)の支配下にありました。

ギリシア民族は異民族トルコによる支配から脱却するべく、1821年以降独立を求める戦いを各地で起こしていたのです。

そんな最中、エーゲ海に浮かぶ島キオスにオスマン・トルコ帝国の軍隊が上陸して来ました。
キオス島民たちはトルコ軍に対して無抵抗の状態でした。

にも関わらずトルコ軍は島民約二万人を虐殺します。
さらに四万人以上の島民を奴隷化したのです。

画面向かって右の、馬に乗ってターバンを頭に巻いているのがトルコ軍兵士です。
この兵士は情け容赦ない表情で島民たちを見下しています。

画面前景に描かれた島民たちは多くの仲間を殺されて失意の表情を示しています。

ギリシアがオスマン・トルコ帝国からの独立を求めたギリシア独立戦争は1821年に始まりました。

そして、最終的にギリシアの独立が国際的に承認されたのは1832年のことです。


2. 原題


ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)が描いた『キオス島の虐殺』はフランス語ではScène des massacres de Scioと言います。

le massacreは大量虐殺という意味です。

この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。





レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月27日(木)15時57分 | 編集 |
2011年1月27日(木)


テレビでの放送日:2010年4月12日(月) 
番組名:名画への旅(NHKBShi)

目次
1. 始めに
2. ミラノの教会
3. 食堂の壁画
4. サンティアゴはどこにいるのか?
5. 原題


1. 始めに


NHKBSハイビジョンでは『名画への旅』という10分番組を毎週月曜日の19:50から放送しています。

10分という放送時間を考えると、NHKにとっては埋め草的な位置づけになっている番組なのかも知れません。
しかし、絵画を学ぶきっかけが欲しい私にとっては放送時間の長短はあまり問題ではありません。

今回取り上げるのはレオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』です。

2011年1月27日レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』182

2. ミラノの教会


レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の描いた『最後の晩餐』は、フィレンツェのウフィッツィ美術館やローマのヴァチカン美術館のような「美術館」に展示されているのではありません。

ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の敷地内に修道院があり、その中の食堂の壁に描かれたものが現存しているのです。

壁画の完成は1498年ですので500年以上の年月が経過しているわけです。

私も2005年のイタリア旅行の際にこの目で実物を見て来ました。

このイタリア旅行は30名ぐらいの団体ツアーだったのですが、壁画のある部屋に全員が一斉に入室することは許可されていないということで添乗員からグループ分けがなされました。

私と母とツアー仲間(夫婦)の計4名でこの壁画を見ることになりました。

見学を許可された時間は15分ぐらいだったと思います。

想像以上に広い空間を4人で独占する形になりましたので、思わぬ開放感に浸れたことを覚えています。

この壁画の寸法は縦460センチ×横880センチです。

テレビなどで縮小された姿しか見たことがありませんでしたので、横幅9メートル近いというのはやはり圧倒的な存在感がありました。

しかも、室内は薄暗くて幻想的な雰囲気が漂っているんですよ。
日常的な光を当ててしまうと、壁画の状態を維持することが出来なくなるのでしょうね。


3. 食堂の壁画


この世界的な大作が描かれた部屋は当初は食堂として使われていました。

そのために食べ物から発せられる湯気などの湿気に侵食されて、時間の経過とともにレオナルドの描いた本来の姿は失われてしまいました。

この作品は壁に描かれているのですがフレスコ画ではありません。
卵と油を主成分とするテンペラ画です。

テンペラ技法は壁画には不向きだったため、絵の具の剥落が完成直後から見られたそうです。

壁画の損傷や剥離が著しい部分については500年の間に何度か修復が行われたようです。
直近では20世紀(1977-1999)の大修復作業が有名ですね。

私が見てきたのはこの1999年の修復作業を経た後の壁画だったわけです。

ちょうどダン・ブラウンがこの『最後の晩餐』を題材にして、『ダ・ヴィンチ・コード』という推理小説を書いたことが世界的に話題になっていた頃でした。

日本での書籍発売は2004年5月ですので私がミラノへ行く1年前ということになります。

テレビなどでもこの壁画を取り上げた特別番組が再三組まれて、専門家達による様々な解説が毎月のように行われていました。

2005年にミラノでこの絵を見るにあたり予習をするという意味では、環境がうまい具合に整っていたのかしらと思います。

今では『ダ・ヴィンチ・コード』の話題なんて日本では全く聞かれなくなりましたからね。


4. サンティアゴはどこにいるのか?


サンティアゴ巡礼道で有名なサンティアゴ(Santiago)は、イエスの十二使徒の一人である聖ヤコブのスペイン語読みなのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)が描いた壁画の中でサンティアゴはどこにいるのかということですが、向かって右から5番目、両手を広げている人物が聖ヤコブ(サンティアゴ)です。

サンティアゴの右手がもう少しでイエスの左肩に触れるような距離感で描かれていますよね。

なお、イエスの十二使徒の中でヤコブという名前の聖人は2人います。
区別するために便宜上「大ヤコブ」と「小ヤコブ」という言い方をしますね。

私たちが普段聖ヤコブと言っているのは、向かって右から5番目の「大ヤコブ」を指していることがほとんどだと思います。

イタリア語ではヤコブをGiacomoと言います。
「大ヤコブ」はGiacomo il Maggioreと表記します。


5. 原題


最後に、レオナルドの描いた『最後の晩餐』はイタリア語で何て言うのかを見ておきましょう。
晩餐という難しい日本語を使っていますが、要するに夕食のことです。

そのまま直訳して、L'Ultima Cenaとなります。
あるいは、別の表現でIl Cenacoloと呼ばれる場合もあります。

la cenaには夕食という意味しかありませんが、il cenacoloは修道院内の食堂という意味があります。





ジャック=ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月26日(水)16時25分 | 編集 |
記事のタグ: メトロポリタン美術館
2011年1月26日(水)


目次
1. 毒人参
2. 冤罪
3. 悪妻クサンティッペ
4. 原題


今回取り上げる作品は、ジャック=ルイ・ダヴィッド作『ソクラテスの死』です。

2011年1月26日ジャック=ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』218

1. 毒人参


フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)は、ソクラテスが毒杯を仰ぐ直前の場面を描きました。

画面中央で左手の人差し指を付き出して、右手で盃を取ろうとしているのがソクラテス(紀元前469頃-紀元前399)です。

ソクラテスが手にしようとしている盃には、毒人参の液体が入っています。
当時のアテネで行われていた死刑の方法は、死刑囚が自ら毒人参を飲むこととされていました。

ドクニンジンとは、中枢神経の働きを犯す成分を有する有毒植物です。

向かって左で赤い服を着て右手で盃を差し出しているのは、死刑執行の官吏です。

官吏は、左手で顔を抑える仕草をしています。
彼は、ソクラテスのような賢人を死刑に追い込むという社会の不条理を嘆いているのでしょう。

その向かって左で着座してソクラテスに背を向けているのは、弟子のプラトン(紀元前427-紀元前347)ではないかとされています。


2. 冤罪


ソクラテスの罪状は、アテネの神々を信仰せず若者を堕落させたことです。
実際にソクラテスには、そのような意図はありませんでした。

完全な冤罪です。

しかし、知識人と称する人々はソクラテスから完膚なきまでにその無知を暴かれていました。
そういったソクラテスの活動に対して、権力を持っていた人々は憎悪を募らせていったのです。

何だか、イエスと似たような話ですね。


3. 悪妻クサンティッペ


画面後景向かって左で赤い服を着ている女性は、ソクラテスの妻クサンティッペであるとされています。

クサンティッペは、右手を上げています。

この角度ではソクラテスの姿は見えないと思いますが、最後の別れをしているつもりなのかも知れません。

クサンティッペは、世界三大悪妻の一人とされています。

クサンティッペは、夫ソクラテスと言い争いをした後、激情して夫の頭から水をかぶせたという話が残っています。

賢人ソクラテスも、妻の扱いにはかなり苦労したようです。


4. 原題


ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)が描いた『ソクラテスの死』は、英語ではThe Death of Socratesと言います。

この作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)で見ることが出来ます。





レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月24日(月)16時05分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月24日(火)


目次
1. マウソロスの妻
2. 世界の七不思議
3. 原題


今回取り上げる作品はレンブラント・ファン・レイン作『アルテミシア』です。

2011年1月24日レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』310

1. マウソロスの妻


オランダの画家レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)が描いているのはカリア国の統治者マウソロスの妻アルテミシアです。

カリア国は現在のトルコのアジア地域に同定されています。

マウソロスはカリア国王ではなく、カリア地域を統治していたアケメネス朝ペルシアのサトラップでした。

サトラップとは現在の州知事のような立場と捉えられています。

作品に描かれたアルテミシアはマウソロスの妹であり妻です。
当時のカリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習となっていました。


2. 世界の七不思議


紀元前353年にマウソロスは亡くなります。
そして妻アルテミシアがマウソロスのサトラップの地位を継承します。

サトラップとなったアルテミシアはマウソロスのための壮麗な霊廟を建設することにしました。
マウソロス霊廟の建設地として選ばれた街はカリア国の首都ハリカルナッソスです。

ハリカルナッソスは現在のトルコ西部にある港湾都市ボドルムに同定されています。

レンブラントはマウソロスが亡くなった後のアルテミスの姿を描いています。

作品の中で侍女がアルテミスに差し出しているのは葡萄酒です。
この葡萄酒の中には亡き夫マウソロスの遺灰が混ざっているのです。

寡婦となったアルテミシアは、そこまで夫のことを愛していたということです。
アルテミシアは夫の死から二年後の紀元前351年に亡くなったとされています。

マウソロス霊廟はアルテミスが亡くなった翌年、紀元前350年に完成しました。
この霊廟は後に古代世界の七不思議の一つに数えられることになります。

マウソロス霊廟は現存せず、遺跡がボドルム市内に残されています。


3. 原題


レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)が描いた『アルテミシア』はスペイン語ではArtemisia II de Cariaと言います。

この作品はプラド美術館で見ることが出来ます。


2012年5月25日(金)追記


現在プラド美術館は、この絵画をアルテミシアではなくユディットを描いたものだと解釈しているようです。

この絵画の題名はスペイン語では、Judit en el banquete de Holofernesと言います。

邦題は『ホロフェルネスの酒宴におけるユディト』となります。





ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月24日(月)12時53分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月24日(月)


目次
1. 労(いたわり)りの心
2. コンベルソ
3. 原題


1. 労(いたわり)りの心


ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)は、2011年1月23日(日)の記事『ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』 loro2012.blog.fc2.com』で取り上げた『ラス・メニーナス』以外にも、宮廷にいる人々を描いた作品を数多く残しています。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』1 449

上掲の『セバスティアン・デ・モーラ』とか、下掲の『道化ディエゴ・デ・アセド "エル・プリモ"』などはその代表例であり、彼の卓越した写実能力によってモデルになった人物たちの知性や思慮深さが表現されています。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』2 432

ベラスケス(1599-1660)の生きた17世紀のマドリッド宮廷内では、この2つの絵画に描かれた男性たちのような小人症(こびとしょう)という病態を有する者が、王一族とともに暮らしていました。

そして、必要とあらば彼らは道化の役割を演じるということもあったようです。

絵画に描かれた彼らの視線に注目して下さい。

ベラスケスは、モデルの目の位置よりも低いところから、彼らを描こうとしていたことが読み取れます。

ベラスケスの持つ人間としての温かみが、作品を通して伝わって来ますよね。

敗者への労(いたわ)りを主題とした『ブレダの開城』という作品にも、彼の思いの一端を感じ取ることが出来るでしょう。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』3 277

なぜ彼が多くの作品をそのような趣旨で描いたのかという理由として、彼の出自というものが関係していたのではないかと考える研究者もいます。

それは、コンベルソの問題です。


2. コンベルソ


コンベルソ(converso)とは、スペイン語でユダヤ教からカトリックへ改宗した者を指します。

レコンキスタ(711-1492)を完成させたカスティーリャ女王のイサベル1世(1451-1504)は、国家統合政策の一環としてイベリア半島に暮らしていたユダヤ人勢力を排撃する動きを示しました。

イサベル1世は夫であるフェルナンド2世(アラゴン王)とともに、ローマ教皇から「カトリック両王」の称号を授けられたというぐらいのカトリック信奉者でした。

従って、この女王が治める土地においてユダヤ教徒であることを貫くということは、大きな負の要素を抱えて生きていくことを意味したわけです。

そうした時代の流れを敏感に感じ取ったユダヤ教徒たちは、次々とカトリックに改宗していきます。

スペインという枠組みの中で一家全員が安泰に生きていくためには、改宗するという現実的な判断を迫られたということですね、

この改宗者(コンベルソ)の中に、ベラスケスの父方の祖父がいたのです。

フェリペ4世(1605-65)に引き立てられて、貴族にまでなったベラスケスは生涯この自分の出自を隠し通しました。

当時のスペイン宮廷社会においてコンベルソの出身であることを明らかにすることは、政治生命の終わりを意味したからです。

当時は、宗教的な「血統」も重視された時代ですので、「改宗組」はその末裔も含めて本流ではないという評価を受けたわけですね。

ベラスケスの描く作品に弱者への思いやりが感じられる一つの要因として、このコンベルソの件を挙げることが出来るかも知れません。


3. 原題


今回ご紹介した3点は、全てプラド美術館(Museo Nacional del Prado)の所蔵となっています。

『セバスティアン・デ・モーラ』は、スペイン語ではEl bufón don Sebastián de Morraと言います。

『道化ディエゴ・デ・アセド "エル・プリモ"』は、スペイン語ではEl bufón don Diego de Acedo, "el Primo"と言います。

el bufónは、「道化」という意味です。

『ブレダの開城』は、スペイン語ではLas lanzas, o La Rendición de Bredaと言います。
la Rendiciónの語義は、降伏とか城市の明け渡し、です。

なお、『ブレダの開城』については2010年8月13日の記事『ディエゴ・ベラスケス『ブレダの開城』 loro2012.blog.fc2.com』で詳しく取り上げています。





ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月23日(日)12時40分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月23日(日)


テレビでの放送日:2010年4月11日(日) 番組名:日曜美術館(NHK教育)

目次
1. 貴族ベラスケス
2. 原題


2010年11月16日(火)の記事『ディエゴ・ベラスケス『フェリペ・プロスペロ王子』 loro2012.blog』で、スペイン・ハプスブルク家の血統を話題にした時に、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の描いた『ラス・メニーナス』を紹介したことがあります。

2011年1月23日ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』382

その時の記事はマルガリータ王女を中心に構成したのですが、今回はベラスケスとはどういう人物なのかという視点で述べたいと思います。


1. 貴族ベラスケス


ベラスケス(1599-1660)はスペイン南部の都市セビリアに生まれ、20代でフェリペ4世(1605-65)付きの宮廷画家となりました。

『ラス・メニーナス』以外にも、国王一家及びその周辺にいる人々の肖像画を数多く残しています。

フェリペ4世はベラスケスの持つ画家としての才能だけでなく、国王側近としての実務能力も認めていました。

ベラスケスの署名入りの請求書が残っていることから、彼は創作活動の傍らで経理事務を行っていたことがわかります。

また、国王から貴族の称号も与えられています。

ベラスケスにとって貴族の称号というのは、どうしても手に入れたいものでした。

当代一流の画家としての名声以上に価値を感じられる社会的地位の象徴・・・、それが貴族の称号だったわけです。

『ラス・メニーナス』の中で彼は貴族の証である赤い紋章の入った黒衣を身に纏(まと)っている自分の姿を描いています。

紋章に対するこのような思い入れは一体どこから来ているのでしょうか?
明日に続きます。


2. 原題


『ラス・メニーナス』は、スペイン語ではLas Meninasと言います。
la meninaは女王や王女に仕える女官という意味です。

この絵画では王女マルガリータに侍(はべ)る女性が複数描かれていますので、定冠詞や名詞も複数形になっているわけです。

製作年は1656年ですのでベラスケス(1599-1660)晩年の作品ということになりますね。

寸法は縦318cmx横276 cmです。
圧倒されそうな巨大な絵画です。

この絵画はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)に所蔵されています。





ヘラルト・ファン・ホントホルスト『女衒』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月22日(土)12時48分 | 編集 |
2011年1月22日(土)


目次
1. 女衒
2. リュート
3. 原題


今回取り上げる作品は、ヘラルト・ファン・ホントホルスト作『女衒』です。

2011年1月22日ヘラルト・ファン・ホントホルスト『女衒』227

1. 女衒


女衒(ぜげん)とは人身売買の仲介業に従事する女性を指します。
女衒が仲介対象とするのは若い女性で仲介先は遊郭です。

オランダの画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト(1592-1656)の作品では、向かって左に描かれている老婆が女衒です。

向かって右の若い女性が娼家(しょうか)で勤めている女性です。
娼家とは遊女屋のことです。

中央の男性は女衒の導きでこの若い女性と顔を合わせることになったわけです。

この男性は左手に財布を握り締めています。
袋の厚みからしてかなりのお金が入っているものと思われます。

差し出した右手の掌には数枚の金貨が載っています。
男性はこの女性のことが気に入った証として、ひとまず手付金を払っているところなのでしょう。

男の表情は全く読み取れませんが、視線は間違いなく女性の胸元へ注がれているはずです。


2. リュート


若い女性が左手で持っている楽器はリュートです。
リュートとはマンドリンに似た弦楽器です。

この作品に描かれたリュートの意義は音楽とは無関係です。
実はリュートは膣(ちつ)の象徴として描かれているのです。

蝋燭の炎を挟んだ男女の商談は女衒の目論見通り成立しました。


3. 原題


ヘラルト・ファン・ホントホルスト(Gerard van Honthorst)が描いた『女衒』は、英語ではThe procuressと言います。

the procuressは売春斡旋業に従事する女性という意味です。

この作品はオランダ中部の街ユトレヒトにある中央美術館で見ることが出来ます。





ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月21日(金)12時27分 | 編集 |
記事のタグ: ゴダイヴァ夫人
2011年1月21日(金)


目次
1. ピーピング・トム
2. ゴディバのチョコレート
3. 原題


今回取り上げる作品は、ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月21日ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』1 508

1. ピーピング・トム


フランスの画家ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(1836-1911)は、白馬の背に乗って全裸で街を巡回するゴダイヴァを描きました。

ゴダイヴァは豊満な胸を腕で隠し、長い髪で左の上半身を覆っています。

コヴェントリーで暮らす全ての住民は、ゴダイヴァの立場を考えて屋内に引き篭っていました。
しかし、どんな世界にも例外はあります。

仕立屋のトムだけはゴダイヴァの巡回する姿を盗み見してしまったのです。
トムは領主の妻の熟れた肉体を見たいという欲望に負けてしまいました。

この後、トムは神罰を受け失明します。

このトムが覗き見した話を語源として、Peeping Tomという言葉が生まれました。

英語でpeepは覗き見するという意味の自動詞です。
Peeping Tomは「裸の女性を覗き見する男」という意味の成句です。

日本語では覗きの常習犯のことを出歯亀(でばがめ)と言います。
出歯亀は出っ歯の池田亀太郎による猟奇殺人事件が語源です。


2. ゴディバのチョコレート


ゴディバはベルギーで創業されたチョコレートの会社として有名です。
ゴディバという会社名はこのゴダイヴァの話に因んだものなのです。

ゴダイヴァの勇気と人々への愛に感銘を受けた創業者が、会社をゴダイヴァと名付けたわけです。

ゴディバの設立は1926年ですから、ゴダイヴァ(990頃-1067頃)の頃から900年ぐらい経っていますね。

ゴダイヴァ(Godiva)は英語読みです。
フランス語読みをするとゴディヴァになります。

日本では片岡物産がゴディバ製品を扱っていて、表記は「ゴディバ」になっています。

2011年1月21日ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』2 207

ゴディバのブランドを示すマークは、馬に跨った髪の長い裸婦です。
この女性はコヴェントリーのゴダイヴァを表しているわけです。


3. 原題


ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(Jules Joseph Lefebvre)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、フランス北部の街アミアン(Amiens)にある美術館(Musée de Picardie)で見ることが出来ます。

ゴダイヴァ夫人の3回シリーズは、これでおしまいです。





ジョン・コリア『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月20日(木)14時18分 | 編集 |
記事のタグ: ゴダイヴァ夫人
2011年1月20日(木)


目次
1. 全裸での巡回
2. 原題


今回取り上げる作品は、ジョン・コリア作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月20日ジョン・コリア『ゴダイヴァ夫人』239

1. 全裸での巡回


マーシア伯レオフリックの夫人ゴダイヴァは、人民を助けるために全裸で馬に跨(またが)り、城下を巡回することになりました。

ゴダイヴァは、夫レオフリックが提示した条件を受け入れ、恥ずかしさを乗り越えて全裸姿を人々の目に晒すことを決意したのです。

ゴダイヴァは領主の妻として、常日頃、威厳ある態度で下々の人間たちと接して来ました。
そしてこの巡回後も、領主の妻としての立場は続いて行きます。

そこで、ゴダイヴァは一計を案じ、コヴェントリーに住む人々に対して次のような布告を出しました。

巡回当日の外出は、禁止とする。
巡回当日は、戸や窓を全て閉めておくこと。

こうしておけば、全裸で街を巡回するゴダイヴァの姿を誰も見ることは出来ません。

ゴダイヴァは、全裸姿を誰からも見られないのであれば、何とかこの犠牲に耐えられるという判断をしたわけです。

コヴェントリーの住民達は、ゴダイヴァの犠牲的行為を支持します。
そして、巡回当日はゴダイヴァの指示通り、家の中にいて戸や窓を完全に閉ざしたのでした。

イギリスの画家ジョン・コリア(1850-1934)は、全裸で馬に跨っているゴダイヴァの姿を描きました。

美しい素肌を出来る限り長い髪で隠しながら、ゴダイヴァはコヴェントリーの街を巡回したのです。

ゴダイヴァの官能的な裸体を見たのは、馬丁(ばてい)と白馬だけ・・・、のはずでした。
ところが、裏切り者がいたのです。


2. 原題


ジョン・コリア(John Collier)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、コヴェントリー(Coventry)にあるハーバート美術館(Herbert Art Gallery and Museum)で見ることが出来ます。






エドモンド・レイトン『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月19日(水)23時14分 | 編集 |
2011年1月19日(水)


目次
1. コヴェントリーの領主夫人
2. 原題


今回取り上げる作品は、エドモンド・レイトン作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月19日エドモンド・レイトン『ゴダイヴァ夫人』276

1. コヴェントリーの領主夫人


イングランドの中部に、コヴェントリー(Coventry)という街があります。
11世紀にこの街を治めていた領主は、マーシア伯レオフリックという男でした。

レオフリックは傲慢な領主だったため、人々はその政治体制に苦しめられていました。

レオフリックには、ゴダイヴァ(990頃-1067頃)という妻がいました。
ゴダイヴァは、夫が行う政治によって理不尽な苦しみを受けている民衆を気の毒に感じていました。

そして彼らの苦しみを救うために、夫レオフリックの圧政を常日頃から諌(いさ)めていました。
口うるさく忠告するゴダイヴァに対して、苛立ったレオフリックは次のように言いました。

「そこまで言うのであれば、お前の諫言(かんげん)を受け入れて政治を改めてやっても良い。
その代わり、一つ条件がある。
裸になって馬に乗り、城下を巡回しろ。」

レオフリックは、妻ゴダイヴァが到底受け入れられないであろう条件を突きつけたのです。

ところが、ゴダイヴァは民衆のために夫の提示した条件をのむことにしました。
つまり、全裸になって馬に跨(またが)り城下を一周するという条件を受け入れたのです。

イギリスの画家エドモンド・レイトン(1853-1922)が描いているのは、ゴダイヴァがその決心をした瞬間です。

画面中央で、白い服を着て立っているのがゴダイヴァです。
向かって右に立っている男が、夫のレオフリックです。

貞淑な妻ゴダイヴァは、人民のために羞恥を捨て去る決心をしたのです。


2. 原題


エドモンド・レイトン(Edmund Leighton)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、イングランド北部の町リーズ(Leeds)にあるリーズ・アート・ギャラリー(Leeds Art Gallery)で見ることが出来ます。





エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月14日(金)13時53分 | 編集 |
2011年1月14日(金)


目次
1. 左脇腹の傷
2. 原題


今回取り上げる作品は、エドゥアール・マネ作『死せるイエス・キリストと天使たち』です。

2011年1月14日エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』1 403

1. 左脇腹の傷


イエスが十字架上で右脇腹を刺されたことは、キリスト教徒なら皆が知っていることだとされています。

ところが、エドゥアール・マネ(1832-1883)はその常識を無視し、左の脇腹に刺された痕を描きました。

両手両足には伝統的なキリスト教の言い伝えに則って、釘を刺された後の傷がちゃんと描かれています。

マネが、どういう意図で左脇腹に刺し傷を描いたのかはわかりません。
もしかしたら、これにより話題を巻き起こし有名になろうとしたのかも知れません。

ただ、この作品以上に物議を醸した『草上の昼食』は、これよりも1年早い1863年のサロンに出品されています。

2011年1月14日エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』2 264

『死せるイエス・キリストと天使たち』を制作した1864年の時点では、マネはもう既に業界ではかなりの有名人だったと思います。

ただ、当時の保守派からは、その真価を認めてはもらえませんでした。

そこで、「左脇腹の傷」という誰も思いつかない「嘘」を題材にして、絵画の本質よりも話題性を優先させようと思ったのかも知れません。

結果的には、マネの狙いは当たったと言えるんじゃないでしょうかね。


2. 原題


エドゥアール・マネ(Édouard Manet)が制作した『死せるイエス・キリストと天使たち』は、英語ではThe Dead Christ with Angelsと言います。

この作品は、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)に所蔵されています。





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