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ピーター・レリー『オリバー・クロムウェルの肖像』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月06日(日)14時41分 | 編集 |
2011年3月6日(日) 


目次
1. 護国卿
2. スコットランド王チャールズ2世
3. 原題


今回取り上げる作品は、ピーター・レリー作『オリバー・クロムウェルの肖像』です。

2011年3月6日ピーター・レリー『オリバー・クロムウェルの肖像』398

1. 護国卿


清教徒革命によってチャールズ1世(在位:1625-1649)は処刑されました。
この後、イングランドは王政を廃して共和政の時代に入ります。

イングランド共和国(1649-1660)を主導したのはオリバー・クロムウェル(1599-1658)です。

オリバー・クロムウェルは護国卿に就任します(任期:1653-1658)。
護国卿とは王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職を指します。

オリバー・クロムウェルの行った政治は、共和政という言葉の印象からはかけ離れた軍事独裁でした。

オランダの画家ピーター・レリー(1618-1680)が描いたこの作品は制作年がハッキリしません。

この作品が制作された時点でオリバー・クロムウェルが護国卿に就任していたかどうかは不明です。


2. スコットランド王チャールズ2世


イングランドで起きた清教徒革命は、隣国スコットランドでは異なる受け止め方をされました。

イングランドでは王政を打倒して共和政が樹立されました。
しかし、スコットランド国民は王政の存続を望みました。

そこで、チャールズ1世の息子のチャールズがスコットランド王に即位しチャールズ2世となりました。

1651年に正式に戴冠式を挙げています。

王政を嫌うオリバー・クロムウェルは、この動きを見てスコットランドに軍事侵攻します。
チャールズ2世率いるスコットランド軍はクロムウェルの軍隊に敗れました。

そして、チャールズ2世はヨーロッパ大陸に亡命することを余儀なくされました。

オリバー・クロムウェルは1658年に病死します。
護国卿の地位を継承したのは、息子のリチャード・クロムウェル(任期:1658-1659)でした。

リチャード・クロムウェルは父オリバーほどの器量や才覚がなく全くの不人気でした。
イングランド議会は1659年にリチャード・クロムウェルを辞任へと追い込みます。

そして、チャールズ2世をイングランド王として迎えることになるのです(在位:1660-1685)。
ここに王政復古が実現しイングランドは再びステュアート家が支配していくことになります。


3. 原題


ピーター・レリー(Peter Lely)が描いた『オリバー・クロムウェルの肖像』は、英語ではPortrait of Oliver Cromwellと言います。

この作品はフィレンツェにあるパラティーナ美術館(Galleria Palatina)で見ることが出来ます。

今回でフランス王家及びイングランド王家と続いた王朝関連の話題は一区切りとなります。
明日からは、いよいよギリシア神話を題材とした絵画を紹介する企画が始まります。


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ヴァン・ダイク『狩場のチャールズ1世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月05日(土)15時22分 | 編集 |
2011年3月5日(土)


目次
1. チャールズ1世はメアリー・ステュアートの孫
2. カトリックの王妃ヘンリエッタ・マリア
3. 清教徒革命
4. 原題


今回取り上げる作品は、ヴァン・ダイク作『狩場のチャールズ1世』です。

2011年3月5日ヴァン・ダイク『狩場のチャールズ1世』 438

1. チャールズ1世はメアリー・ステュアートの孫


アントウェルペンに生まれた画家ヴァン・ダイク(1599-1641)が描いているのは、イングランド王(兼スコットランド王)チャールズ1世(在位:1625-1649)です。

チャールズ1世はスコットランド王ジェームズ6世(在位:1567-1625)の次男として、1600年にスコットランドで生まれました。

ジェームズ6世の母親は、スコットランド女王メアリー・スチュアート(在位:1542-1567)です。

系譜を示します。

女王メアリー・スチュアート→ジェームズ6世→チャールズ1世

スコットランド王ジェームズ6世は、1603年からイングランド王も兼任します。
イングランド王としては、ジェームズ1世を名乗ることになります。

3歳のチャールズは、父ジェームズ1世のイングランド宮廷行きに同行します。
そして、そのままイングランドで育つことになるのです。


2. カトリックの王妃ヘンリエッタ・マリア


チャールズ1世は王位継承後、フランス王家の娘アンリエット・マリー・ド・ブルボン(1609-1669)と結婚しました。

アンリエット・マリーは、アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスとの間の子供です。

マリー・ド・メディシス(1575-1642)については、2010年6月18日の記事『ピーテル・パウル・ルーベンス『マリーのマルセイユ到着』 loro2012.blog.fc2.com』で取り上げたことがありましたね。

イングランドへ嫁いだアンリエット・マリーは、王妃ヘンリエッタ・マリアと呼ばれるようになります。

ヘンリエッタは、フランス宮廷でカトリック教徒として育てられた娘です。
そのカトリック教徒が、イングランドの王妃となったわけです。

何か大きな事件が起きる予感を抱いた人々も、少なくなかったのではないかと思われます。

なぜなら、イングランドはヘンリー8世(在位:1509-1547)の治世下においてローマ・カトリック教会から離脱していました。

それに伴い、イングランド国教会が設立されていました。

メアリー1世(在位:1553-1558)の時代には、一時的にカトリックと縒(よ)りを戻したこともありました。

しかしエリザベス1世(在位:1558-1603)の治世下では、再びイギリス国教会が国家の正式な宗教とされました。

エリザベス1世を継いだジェームズ1世も、カトリック教会とは一線を画す宗教政策をとりました。

チャールズ1世が統治した頃のイングランドにおいては、カトリックというのは過去の遺物と化していたわけです。

宗教的な地位が低下したそのカトリックの教えを忠実に守ろうとする女性が、イングランド宮廷に王妃として存在しているわけです。

ヨーロッパ人の生活の基礎をなすのは、宗教だといっても過言ではないでしょう。

日々の生活を営む上で最も大事な宗教の分野において、相容れない宗教を信奉する者が同じ宮廷の中にいるのです。

宗教の対立は、やがて血を見ることになっていくのです。


3. 清教徒革命


王妃ヘンリエッタはカトリックの形式に則って儀式を行なうだけでなく、積極的にイングランド国内の隠れカトリック教徒たちと親交を持ちました。

そして、夫であるチャールズ1世も、そうした王妃の振る舞いを黙認しました。

宮廷内の女性たちは華やかさに欠けるイングランド国教会の儀式に、日頃から物足りなさを感じていました。

一方カトリックは、ある程度華美な側面を有する宗教です。
そこで、カトリックへと改宗する女官たちが続出するようになりました。

王妃自らがカトリックを信奉し、王はそのことを黙認しているわけですから誰に遠慮もいりません。

こうなってくると、面白くないのはイングランド国教会側の人間です。

このままでは王妃が画策して、イングランドは再びローマ・カトリックを信仰する国になってしまうのではないかという危惧を抱き始めます。

このような社会の流れが、ついには清教徒革命(1641-1649)を引き起こします。
そして、チャールズ1世は処刑されるに至るのです。

1649年のことです。

もちろん、このイングランドの内戦は宗教だけが原因ではありません。
王室の財政状態が傾きかけていたので、王は議会を無視して増税策を取り続けました。

このことが、人々の反感を買ったという側面もあるでしょう。

しかし、後世の人々がこの革命の名称にわざわざ「清教徒」という言葉をつけるぐらい、宗教的な要素も含まれていたわけです。

いずれにしても、チャールズ1世は祖母であるメアリー・スチュアート(1542-1587)と同様に、処刑されました。

チャールズ1世の斬首刑後、イングランドは王政を廃止して共和政(1649-1660)の時代に入ります。


4. 原題


この作品は1635年頃に制作されたとされていますので、チャールズ1世(1600-1649)は35歳ぐらいですね。

ヴァン・ダイクは清教徒革命(1641-1649)が勃発した頃に亡くなっていますので、宮廷画家として仕えたチャールズ1世の最期は見ていないわけです。

『狩場のチャールズ1世』は、英語ではCharles Iと言います。
Charles Iは、Charles the firstと読みます。

フランス語ではCharles Ier, roi d'Angleterreと言います。
Charles Ierは、Charles premierと読みます。

フランス語で「1世」と言う場合は、序数詞を用います。
なお、「2世」以降は序数詞ではなく基数詞を用います。

le roiは、王、という意味です。
Angleterreは、イングランドのことです。

この作品は、ルーヴル美術館に所蔵されています。






作者不明『イングランド王ジェームズ1世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月04日(金)22時58分 | 編集 |
2011年3月4日(金)


目次
1. メアリー・ステュアートの息子
2. スコットランド起源のステュアート朝
3. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『イングランド王ジェームズ1世』です。

2011年3月4日作者不明『イングランド王ジェームズ1世』464

1. メアリー・ステュアートの息子


スコットランド女王メアリー・スチュアート(1542-1587)は、1566年に夫ヘンリー・ステュアートとの間に男の子を生みました。

この男児は、イングランド女王エリザベス1世(在位:1558-1603)によってチャールズ・ジェームズ(1566-1625)と命名されました。

チャールズ・ジェームズは、母メアリー・ステュアートの失脚により1567年にスコットランド王に即位しました。

まだ1歳の王は、ジェームズ6世(在位:1567-1625)と呼ばれることになります。

スコットランドを追われたメアリー・スチュアートは、イングランドにおける19年に及ぶ軟禁生活を経て、処刑されました。

1587年のことです。

メアリー・スチュアートの処刑を命じたのは、イングランド女王エリザベス1世です。

1589年にジェームズ6世は、デンマーク王フレゼリク2世の娘アン・オブ・デンマーク(1574-1619)と結婚します。

その後14年間は、ジェームズ6世は家族と共にスコットランドで暮らしていました。

そして1603年にエリザベス1世が死去して、イングランドのテューダー朝が断絶します。
ジェームズ6世はその後を継いで、イングランド王の地位を継承することになりました。

イングランドにおけるステュアート朝の始まりです。

ジェームズ6世は、イングランド王としてはジェームズ1世(在位:1603-1625)を名乗りました。
つまり、ジェームズ1世とジェームズ6世は同一人物であるということですね。


2. スコットランド起源のステュアート朝


ジェームズ1世の即位によって1603年以降は、ステュアート家がイングランドも統治することになりました。

ステュアート朝は、スコットランドが起源です。
スコットランドとイングランドにおける、王の系譜を見てみましょう。


スコットランド王の系譜をたどると、

ジェームズ5世(在位:1513-1542)→メアリー・スチュアート(在位:1542-1567)→ジェームズ6世(在位:1567-1625)となります。

イングランド王の系譜をたどると、

メアリー1世(在位:1553-1558)→エリザベス1世(在位:1558-1603)→ジェームズ1世(在位:1603-1625)となります。

多少ややこしいかもしれませんが、この時代のイングランド史を理解するためには、これらの系譜を把握することが不可欠です。


3. 原題


『イングランド王ジェームズ1世』の作者は、不明です。
英語では、King James I of England and VI of Scotlandと言います。

この作品は、ロンドンにあるナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)で見ることが出来ます。






作者不明『スコットランド女王 メアリー・ステュアート』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月03日(木)22時55分 | 編集 |
2011年3月3日(木)


目次
1. ジェームズ5世の娘
2. 失脚
3. 処刑
4. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『スコットランド女王 メアリー・ステュアート』です。

2011年3月3日作者不明『スコットランド女王 メアリー・ステュアート』458

1. ジェームズ5世の娘


メアリー・ステュアート(1542-1587)は、スコットランド王ジェームズ5世(在位:1513-1542)の娘です。

父ジェームズ5世がメアリーの生後6日目に亡くなったため、赤子の内に女王に即位しました。

イングランド王ヘンリー8世(在位:1509-1547)は、隣国スコットランドの支配を企図していました。

そこで、1543年に息子のエドワード(1537-1553)と女王メアリーを婚約させました。

エドワードは、後のイングランド王エドワード6世(在位:1547-1553)です。

このまま事態が推移すれば、ヘンリー8世の思惑通りにスコットランドはイングランドの支配下に入るはずでした。

ところがヘンリー8世が1547年に死亡したことにより、イングランドからの政治的圧力が相対的に低下します。

そこでメアリーの母メアリ・オブ・ギーズ(1515-1560)は、エドワード6世とメアリーとの婚約を破棄します。

さらに、メアリーをフランス王太子フランソワと結婚させることに成功しました。

メアリー・オブ・ギーズは、フランスの大貴族ギーズ家の出身でした。

娘のメアリーがイングランド王エドワード6世と結婚した場合、そのまま、なし崩し的にスコットランドがイングランドに併合される可能性が高いとメアリー・オブ・ギーズは考えました。

スコットランド王家の地位と財産を守るために、メアリー・オブ・ギーズは出身国の王家と手を結ぶ道を選んだのです。


2. 失脚


フランス王太子フランソワは、フランソワ2世(在位:1559-1560)としてフランス国王に即位します。

妻であるメアリー・ステュアートも、フランス王妃となりました。

しかし、フランソワ2世は脳炎により16歳で死去します。
子供のなかったメアリー・ステュアートは、祖国スコットランドに戻ることになりました。

スコットランド女王として、メアリー・ステュアートは1565年にヘンリー・ステュアートと結婚します。

そして、1566年にジェームズを出産しました。

一方イングランドでは、エリザベス1世(在位:1558-1603)が女王の地位に就いていました。

エリザベス1世は王女時代に、母アン・ブーリンが処刑されたことに伴い、王女の地位を剥奪されたことがありました。

メアリー・ステュアートはこの点を捉えて、イングランド王位の継承権はエリザベス1世ではなく自らにあることを主張します。

実は、メアリー・ステュアートの父ジェームズ5世の母は、マーガレット・テューダーというヘンリー8世の姉にあたる人物なのです。

系譜を示します。

ヘンリー7世→マーガレット・テューダー→ジェームズ5世→メアリー・ステュアート


イングランドのテューダー家の血を受け継ぐメアリー・ステュアートには、イングランド王を継承する資格があるということですね。

こうした主張を繰り返すメアリー・ステュアートに対して、エリザベス1世は警戒心を募らせます。

1567年にメアリー・ステュアートは、スコットランド女王の地位から失脚し、祖国を追われることになります。

そして、陸続きのイングランドで女王に君臨しているエリザベス1世を、頼ることになるのです。


3. 処刑


イングランドにおけるエリザベス1世の反対派は、テューダー家の血を受け継ぐメアリー・ステュアートをイングランド王に就けようと裏工作を始めます。

最終的にエリザベス1世の政治力が勝り、メアリー・ステュアートは1587年に処刑されました。
メアリー・ステュアートは、44年の生涯を閉じたのでした。

スコットランドの国王は、メアリー・ステュアートの息子ジェームズが後を継ぎジェームズ6世(在位:1567-1625)となっていました。

生涯独身を通したエリザベス1世には嫡子がいなかったため、女王の死後、このジェームズ6世がイングランド王の地位を継承することになるのです。


4. 原題


『スコットランド女王 メアリー・ステュアート』は、作者不明です。
英語ではMary, Queen of Scotsと言います。

この作品は、ロンドンにあるヴィクトリア・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)で見ることが出来ます。






ニコラス・ヒリアード『女王エリザベス1世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月02日(水)12時55分 | 編集 |
2011年3月2日(水)


目次
1. アン・ブーリンの娘
2. 未婚の女王
3. 原題


今回取り上げる作品は、ニコラス・ヒリアード作『女王エリザベス1世』です。

2011年3月2日ニコラス・ヒリアード『女王エリザベス1世』437

1. アン・ブーリンの娘


エリザベス(1533-1603)は、父ヘンリー8世と母アン・ブーリンとの間に生まれました。
確執のあったメアリー1世(在位:1553-1558)の治世では、牢獄に入れられたりもしました。

メアリー1世が5年の在位期間で死ぬと、その後を継いでエリザベス1世(在位:1558-1603)となったのです。

テューダー朝としては第六代目の王であり、最後の王でもあります。

テューダー朝の系譜を示します。

ヘンリー7世(在位:1485-1509)→ヘンリー8世→エドワード6世→ジェーン・グレイ→メアリー1世→エリザベス1世


プロテスタントを徹底的に迫害したメアリー1世とは異なり、エリザベス1世は父ヘンリー8世(1491-1547)が晩年に行った宗教政策を踏襲します。

つまり、カトリックを否定しイギリス国教会を宗教政策の根幹に位置づけたのです。

エリザベス1世の母アン・ブーリンは、ヘンリー8世がカトリックから離脱することによって王妃になれた女性でした。

アン・ブーリンの娘であるエリザベス1世にとって、カトリックの教義に対する思い入れなど特になかったのでしょう。

しかも、敵対関係にあったメアリー1世は、カトリックの信奉者でした。

メアリー1世と同じ宗教政策をエリザベス1世が取るという選択肢は、なかったものと思われます。

メアリー1世によって潰されかけたイギリス国教会は、エリザベス1世の治世下で再び勢力を盛り返すことになります。


2. 未婚の女王


エリザベス1世は、終生結婚することはありませんでした。
従って女王の嫡子は、この世に存在しません。

テューダー朝は、エリザベス1世の死をもって断絶します。

その後のイングランド王位を継いだのは、スコットランド女王メアリー・ステュアートの息子ジェームズ1世(在位:1603-1625)です。

イングランド王家の話は、あと少し、続きます。


3. 原題


ニコラス・ヒリアード(1547頃-1619)は、人物を対象とする細密画を得意としました。

ニコラス・ヒリアード(Nicholas Hilliard)が描いた『女王エリザベス1世』は、英語ではQueen Elizabeth Iと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)で見ることが出来ます。






アントニス・モル『イングランド女王メアリー1世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年03月01日(火)15時00分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年3月1日(火) 


目次
1. キャサリン・オブ・アラゴンの娘
2. 義妹エリザベスとの確執
3. 女王メアリー
4. 流血のメアリー
5. 原題


今回取り上げる作品はアントニス・モル作『イングランド女王メアリー1世』です。

2011年3月1日アントニス・モル『イングランド女王メアリー1世』462

1. キャサリン・オブ・アラゴンの娘


メアリー1世(1516-1558)はヘンリー8世(在位:1509-1547)の娘です。
母はヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536)です。

キャサリン・オブ・アラゴンは男児を産まなかったため、一人娘のメアリーが王位継承者としての地位を与えられました。

ところがヘンリー8世は1533年にキャサリン・オブ・アラゴンを離縁しました。
母が王妃でなくなったことに伴い、メアリーの王女及び皇太女の地位も剥奪されてしまいます。

ヘンリー8世の二番目の妻になったアン・ブーリンは1533年9月に王女エリザベスを出産します。
この王女は後のエリザベス1世です。


2. 義妹エリザベスとの確執


王女としての地位を失ったメアリーは、アン・ブーリンによってエリザベスの侍女という立場にまで貶(おとし)められました。

エリザベス自身は幼少だったため何もしていないわけですが、メアリーはこのことを終生忘れずエリザベスとの確執を深めていくことになります。

その後、ヘンリー8世が死に、エドワード6世(在位:1547-1553)が王位を継承します。
エドワード6世が死んだ後は、ジェーン・グレイ(1537-1554)が女王として即位します。

このジェーン・グレイの即位は民衆からの支持を得られませんでした。

そして、エドワード6世に次ぐ王位継承権を有するメアリーがイングランド女王として即位することになるのです。


3. 女王メアリー


ヘンリー8世は1534年に国王至上法を発布してローマ・カトリック教会から離脱していました。

女王となったメアリー1世(在位:1553-1558)はヘンリー8世が行った宗教改革を覆しローマ・カトリック教会に復帰します。

メアリー1世は熱心なカトリック教徒だったのです。

父ヘンリー8世と母キャサリン・オブ・アラゴンが共にカトリック信者だったことの影響が大きいと思われます。

メアリー1世は1554年にスペインの王太子フェリペと結婚します。
フェリペは2年後にスペイン国王フェリペ2世(在位:1556-1598)となります。


4. 流血のメアリー


メアリー1世はプロテスタントを徹底的に弾圧しました。
カトリックを否定する者たちを約300人処刑したと伝えられています。

エリザベスはプロテスタントの反乱を扇動したという罪で一年近く投獄されています。

このエリザベス逮捕事件は事実上の冤罪であり両者の確執が原因でこのような事態に至ったのではないかとする説もあります。

メアリー1世のこういった暴君ぶりを評して「流血のメアリー(ブラッディ・メアリー)」という仇名で呼ぶ人も少なくありません。

メアリー1世はフェリペ2世との間に子どもを作ることが出来ませんでした。
そこで王位継承順位に従い、宿敵エリザベスを次期女王に指名せざるを得ませんでした。

オランダの画家アントニス・モル(1520-1578頃)はこの作品を1554年に制作しました。
メアリー1世がイングランド王位に就いた翌年のことです。


5. 原題


アントニス・モル(Anthonis Mor van Dashorst)が描いた『イングランド女王メアリー1世』はスペイン語ではMaría Tudor, reina de Inglaterra, segunda esposa de Felipe IIと言います。

reinaは女王、segunda esposaは二番目の配偶者という意味です。

この作品はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)で見ることが出来ます。





ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月28日(月)18時58分 | 編集 |
2011年2月28日(月) 


目次
1. レディ・ジェーン・グレイとは誰か?
2. 王位継承順位
3. ジェーン・グレイの最期
4. 原題


今回取り上げる作品は、ポール・ドラローシュ作『レディ・ジェーン・グレイの処刑』です。

2011年2月28日ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』263

1. レディ・ジェーン・グレイとは誰か?


ポール・ドラローシュ(1797-1856)が描いているのは、レディ・ジェーン・グレイ(1537-1554)が処刑される場面です。

レディ・ジェーン・グレイとはイングランドのテューダー朝第4代の女王です(在位:1553年7月10日-19日)。

在位期間は、わずかに10日間しかありません。
処刑時の年齢は16歳です。

テューダー朝とは、ヘンリー7世(在位:1485-1509)が創設したイングランドの王家です。
ヘンリー7世の後を継いだのがヘンリー8世(在位:1509-1547)です。

ヘンリー7世の次女にメアリー・テューダーという女性がいて、フランス国王ルイ12世の王妃となっています。

メアリー・テューダーは、ヘンリー8世の妹にあたります。
ジェーン・グレイはメアリー・テューダーの孫ですので、ヘンリー7世の曾孫にあたります。

系譜で示します。

ヘンリー7世→メアリー・テューダー→フランセス・ブランドン→ジェーン・グレイ

テューダー朝の王位継承は、以下のような系譜になっています。

ヘンリー7世→ヘンリー8世→エドワード6世(在位:1547-1553)→ジェーン・グレイ→メアリー1世(在位:1553-1558)→エリザベス1世(在位:1558-1603)


2. 王位継承順位


ジェーン・グレイは、エドワード6世の補佐役であったジョン・ダドリー(1502-1553)の息子と結婚します。

エドワード6世が15歳の若さで病没する直前に、ジョン・ダドリーはジェーン・グレイへの王位継承を迫り了承させました。

本来の王位継承順位は、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)、ジェーン・グレイの順番でした。

しかし事実上の政権を握っていたジョン・ダドリーは、息子の嫁であるジェーン・グレイを王位に就け即位を宣言します。

ジェーン・グレイは女王とは言え、ジョン・ダドリーの傀儡(かいらい)であることは明らかでした。

そしてジョン・ダドリーの本当の目的は、ジェーン・グレイが子供を生んだ場合にその子を王位に就け、自らは王の祖父としてイングランド宮廷を牛耳ることにあったとされています。

こうしたジョン・ダドリーのやり方に反発した抵抗勢力は、継承順位第一位のメアリーを女王として担ぎ出し即位を宣言します。

民衆は正統なる継承者のメアリーの側につき、ジョン・ダドリー及びジェーン・グレイ一派は反逆罪で逮捕されることになりました。


3. ジェーン・グレイの最期


目隠しをされたジェーン・グレイがいる場所は、このブログにも何度か登場しているロンドン塔です。

現在では世界遺産にも指定されている観光名所のロンドン塔は、かつては王侯貴族の処刑場でもあったわけですね。

前景に描かれている藁(わら)は、切り落とされたジェーン・グレイの首から飛び散る血を吸収するために敷かれています。

向かって左側にいるジェーン・グレイの侍女達は、絶望的な表情を浮かべています。
うら若き乙女が政争に巻き込まれ、こういう形で命を落とすことを不憫に思っているのでしょう。

向かって右側に立っている男が左手に持っているのは、処刑用の大斧ですね。
これを振り下ろして首を切り落とすわけです。

せめて一振りでジェーン・グレイが絶命し、出来るだけ苦しまずに死んだことを願うばかりです。


4. 原題


ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche)が制作した『レディ・ジェーン・グレイの処刑』は、英語ではThe Execution of Lady Jane Greyと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ギャラリー(The National Gallery)で見ることが出来ます。






ウィリアム・スクロッツ『エドワード6世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月27日(日)22時52分 | 編集 |
2011年2月27日(日)


目次
1. ジェーン・シーモアの息子
2. 原題


今回取り上げる作品は、ウィリアム・スクロッツ作『エドワード6世』です。

2011年2月27日ウィリアム・スクロッツ『エドワード6世』647

1. ジェーン・シーモアの息子


ヘンリー8世(在位:1509-1547)が亡くなった後、イングランド王位を継承したのはエドワード6世(在位:1547-1553)でした。

エドワード6世(1537-1553)の母は、ヘンリー8世の三番目の妻であるジェーン・シーモア(1509-1537)です。

ジェーン・シーモアは、1537年10月12日に男児を出産します。
この男児が、後のエドワード6世となります。

ジェーン・シーモアは出産後の体調が思わしくなく、10月24日にこの世を去りました。
従って、エドワード6世は母のことは知らずに成長したわけです。

エドワード6世は、父ヘンリー8世の死去に伴い、わずか9歳で王に即位します。

ジェーン・シーモアの兄エドワード・シーモア(1506-1552)が、少年王エドワード6世の摂政となります。

その後、エドワード・シーモアは失脚し、ロンドン塔で処刑されました。
エドワード6世の二代目の補佐役になったのが、ジョン・ダドリー(1502-1553)です。

エドワード6世は、15歳の若さで病没します。

そしてジョン・ダドリーの野望は、やがてヘンリー7世の血を受け継ぐジェーン・グレイ(1537-1554)の悲劇を招くことになります。

明日に続きます。


2. 原題


ウィリアム・スクロッツは、16世紀中葉のテューダー朝宮廷で活躍した画家です。
生没年は、不明です。

ウィリアム・スクロッツ(William Scrots)が描いた『エドワード6世』は、英語ではEdward VIと言います。

この作品は、ロイヤル・コレクションの一つとしてハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)で見ることが出来ます。






作者不明 『キャサリン・パー』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月26日(土)22時49分 | 編集 |
2011年2月26日(土)


目次
1. 六番目の妻キャサリン・パー
2. 最も長生きした王妃は誰か
3. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『キャサリン・パー』です。

2011年2月26日作者不明 『キャサリン・パー』417

1. 六番目の妻キャサリン・パー


キャサリン・ハワードを処刑した後、ヘンリー8世(1491-1547)は6人目の王妃を我がものとします。

女性の名は、キャサリン・パー(1512-1548)と言います。

結婚したのが1543年ということですので、ヘンリー8世は52歳ですね。
このキャサリン・パーは聡明な教養人だったらしく、王の信頼も勝ち得ていたようです。

ヘンリー8世は、1547年に死にました。

そして、王の最期を看取ったキャサリン・パーはその数カ月後、ジェーン・シーモアの兄と再婚しました。

亡霊としてハンプトン・コート宮殿内をさ迷い歩く、ジェーン・シーモアの兄と結婚したんですよ。
しかも、王が死んだ数カ月後に・・・。

キャサリン・パーは翌1548年に出産した後、病気で亡くなりました。


2. 最も長生きした王妃は誰か


ヘンリー8世の6名の王妃の中で最も長く生きたのは、4番目の王妃クレーヴェ公の娘アン(1515-1557)でした。

アンは、1540年にヘンリー8世から離縁されて王妃ではなくなりました。
しかし、イングランド王族としての地位を保持し続けることは認められていたのです。

アンは40余年の生涯の中で、金銭的に困ることは無かったようです。


3. 原題


この作品は、作者が不明です。
『キャサリン・パー』は、英語ではCatherine Parrと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)で見ることが出来ます。






ハンス・ホルバイン『キャサリン・ハワード』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月25日(金)22時46分 | 編集 |
2011年2月25日(金)


目次
1. キャサリン・ハワードの悲劇
2. ハンプトン・コート宮殿の亡霊
3. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『キャサリン・ハワード』です。

2011年2月25日ハンス・ホルバイン『キャサリン・ハワード』487

1. キャサリン・ハワードの悲劇


ヘンリー8世(1491-1547)はアンと結婚しましたが、半年で離縁しました。
その後、キャサリン・ハワード(1521頃-1542)という女性を五番目の妻に迎えます。

キャサリン・ハワードはアン・ブーリンの従妹です。
ヘンリー8世はまたしても手近なところで王妃を決めてしまったのでした。

この5人目の王妃キャサリン・ハワードも不幸な最期を迎えることになります。
不義密通の濡れ衣を着せられて、諸先輩方同様ロンドン塔に送られて処刑されました。

もう、こんなのばっかりです。
ヘンリー8世を調べて行くとこんな話ばっかりなんですよ。

この事実を踏まえてロンドン塔へ観光に行くのは、なんだか恐ろしい気もします。


2. ハンプトン・コート宮殿の亡霊


キャサリン・ハワードが逮捕されてロンドン塔へ連れて行かれる直前にいた場所がハンプトン・コート宮殿です。

ハンプトン・コート宮殿はロンドンの中心部から20キロほど離れたところにあります。

キャサリンの怨念はこのハンプトン・コート宮殿にも残っているらしく、今だに亡霊が宮殿の中に現れるそうです。

また、3人目の王妃ジェーン・シーモアが王子(後のエドワード6世)を出産した後に亡くなったのもこのハンプトン・コート宮殿の中でした。

ハンプトン・コート宮殿の中ではどうやって見分けるのか分かりませんが、ジェーン・シーモアの亡霊も出るそうです。

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の『ハムレット』などは、こういった話から着想を得て書かれたものかも知れませんよね。


3. 原題


ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)が描いた『キャサリン・ハワード』は、英語ではPortrait of Catherine Howardと言います。

この作品は、アメリカのオハイオ州北西部に位置する街トレドにあるトレド美術館(Toledo Museum of Art)で見ることが出来ます。






ハンス・ホルバイン『トマス・クロムウェル』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月24日(木)22時43分 | 編集 |
2011年2月24日(木) 


目次
1. トマス・クロムウェルの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『トマス・クロムウェル』です。

2011年2月24日ハンス・ホルバイン『トマス・クロムウェル』409

1. トマス・クロムウェルの悲劇


4人目の王妃アンを処刑することはなかったヘンリー8世(1491-1547)ですが、この男がこのまま黙っているはずがありません。

こうなったすべての原因を、クロムウェル(1485-1540)に押し付けます。
クロムウェルは今までの先輩たち同様、ロンドン塔へ送られ処刑されました。

自分が気に入らなければ殺す・・・、
それが、ヘンリー8世なのです。

長杖で殴りつけていたイワン雷帝(1530-1584)よりも、酷(ひど)いかも知れません。

ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)は、よく無事でしたよね。
奇跡でしょうね。


2. 原題


ハンス・ホルバイン(Hans Holbein, the Younger)が描いた『トマス・クロムウェル』は、英語ではThomas Cromwellと言います。

この作品は、ニューヨークにあるフリック・コレクション(Frick Collection)で見ることが出来ます。






ハンス・ホルバイン『クレーヴェ公女アン』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月23日(水)12時17分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年2月23日(水)


目次
1. 4人目の王妃候補
2. 美人
3. クレーヴェ公の娘アンの悲劇
4. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『クレーヴェ公女アン』です。

2011年2月23日ハンス・ホルバイン『クレーヴェ公女アン』454

1. 4人目の王妃候補


3番目の王妃ジェーン・シーモアが亡くなりましたので、ヘンリー8世は4人目の妻を探し求めます。

トマス・モア(1478-1535)亡き後、イングランド宮廷において実権を握っていたのがトマス・クロムウェル(1485-1540)です。

モアの失脚、処刑という一連の流れには王だけでなくクロムウェルも関わっていますので、宗教の問題に絡めてまんまと政敵を追い落としたという印象を持った宮廷人も多かったのではないでしょうか。

ヘンリー8世の再婚相手として、2名の候補者が選ばれました。
一人はデンマークの王女、もう一人はドイツのクレーヴェ公の娘です。

今まで身近なところで強引な手法により妻を娶ってきたヘンリー8世でしたが、4人目の王妃は見合いによって決めることにしました。

当時の見合いは現代のように写真がありませんので、肖像画によって相手の外見を知ることになるわけです。

2名の王妃候補の肖像画を描くよう王から命じられて、デンマークとドイツへ赴いたのがホルバインでした。

現代の見合い写真でも同じことが言えるのかも知れませんが、まあ、こういった類のものはありのままには描きませんよね、普通はね。

どうしても美化して描くのが人間というものです。
なぜなら、出来上がった作品は当事者だけでなく、宮廷の者たちも興味を持って見るでしょう。

そうすると、より美しく描こうとするのが画家の本分でしょうし、心情的にもそのようにした方が何かと有利ではないかという判断が働いたのだと思います。

しかし、それがまずかった・・・。


2. 美人


ホルバインがイングランドに帰国し、制作した肖像画2枚を携えてヘンリー8世に報告を行います。
そこにはクロムウェルも同席し、検討会議が開かれます。

ホルバインの肖像画を見る限り、2人とも美人です。
顔は申し分ない。

とすると、後は政治的な要素で判断するだけです。
実力者クロムウェルは、クレーヴェ公の娘アンを最終的に推挙します。

デンマーク王女はまだ20歳前、アンは20歳代半ばという年齢的な要素も考慮したのかも知れません。

いずれにせよ、王にとっては一番重要な要素は顔です。
ハッキリ言って、それ以外の要素などこの暴君にはどうでもいいのですよ。

美人で、成熟した肉体を持ち、実家も利用価値がある・・・、
こういった理由で、アンは第4代の王妃に選ばれました。


3. クレーヴェ公の娘アンの悲劇


結婚の同意が得られ、アンがドイツからはるばるイングランドにやって来ました。

どんな美人が来るかと楽しみにしていたヘンリー8世の夢は、彼女が到着した瞬間に打ち砕かれました。

違うんですよ、肖像画と実物が。
もう今更、どうにもなりません。

結局、ヘンリー8世とアンが同じベッドで眠ることはなかったそうです。
アンはイングランドに上陸してから半年後に、離縁されて宮廷から追い出されてしまいました。

さすがに、アンを処刑する口実までは暴君も見つからなかったようですね。

まあ、ほとんど顔を合わせる機会はなかったんでしょうから、アンの方にはそもそもが嫌われる可能性すらもないんですけどね。

責任を取らされたのは、最終的な推薦をしたクロムウェルです。
明日に続きます。


4. 原題


『クレーヴェ公の娘アン』は、フランス語ではAnne de Clèves、ドイツ語ではAnna von Kleveと言います。

この作品は、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)が所蔵しています。






ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月22日(火)11時50分 | 編集 |
記事のタグ: 美術史美術館
2011年2月22日(火)


目次
1. ジェーン・シーモアの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』です。

2011年2月22日ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』545

1. ジェーン・シーモアの悲劇


ヘンリー8世(1491-1547)は、1536年5月にアン・ブーリン(1507頃-1536)を処刑しました。

処刑後すぐに、ジェーン・シーモア(1509-1537)という女性と結婚します。

ジェーン・シーモアは、元々はヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536)に仕えるために宮廷に上がりました。

キャサリン・オブ・アラゴンは、離婚によって宮廷を去りました。
その後、次の王妃となったのはアン・ブーリンでした。

ジェーン・シーモアは、新王妃アン・ブーリンの女官としてそのまま宮廷に残っていたのです。

アン・ブーリンは、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でした。
ジェーン・シーモアは、アン・ブーリンの侍女です。

ヘンリー8世という男は、同じことを繰り返しているわけですね。
懲りない男です。

ドイツの画家ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)は、ヘンリー8世と結婚した直後のジェーン・シーモアを描きました。

ジェーン・シーモアが頭につけている黒い頭巾は、ベルベット製です。

16世紀前半のイングランドでは、女性がこのような髪型をして顔を囲むような頭巾をつけるのが流行していたようです。

このジェーン・シーモアが、翌1537年にようやく待望の男子を出産します。

この男児は、後のエドワード6世(1537-1553)となります。
ヘンリー8世の死後、王位を継承した人物です。

王妃としての責任を果たしたシーモアでしたが、残念ながら出産後すぐに亡くなってしまいます。
周囲は、アン・ブーリンの呪いではないかと囁き合ったと言います。


2. 原題


ハンス・ホルバイン(Hans Holbein der Jüngere)が描いた『ジェーン・シーモア』は、ドイツ語ではJane Seymourと言います。

この作品は、ウィーンにある美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で見ることが出来ます。






作者不明 『アン・ブーリン』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月21日(月)22時38分 | 編集 |
2011年2月21日(月) 


目次
1. アン・ブーリンの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『アン・ブーリン』です。

2011年2月21日作者不明 『アン・ブーリン』432

1. アン・ブーリンの悲劇


アン・ブーリン(1507頃-1536)は、元々は初代王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でした。

王妃付きの侍女としてヘンリー8世の周囲で生活する内に、いつしか王はブーリンのことを結婚対象として見るようになっていきました。

ヘンリー8世がカトリックとの決別という代償を払ってまで手に入れた王妃ブーリンでしたが、残念ながら彼女は周囲の期待を裏切り、王子を生むことは出来ませんでした。

彼女が産んだ王女は、後のエリザベス1世(1533-1603)になります。

暴君のヘンリー8世が、世継ぎを産めない女性を咎(とが)めないはずがありません。

結局、ブーリンには不義密通の疑いがあるという濡れ衣を着せて、ロンドン塔へ幽閉してしまいます。

その後、トマス・モア同様、塔内で処刑されました。

現在世界遺産として登録されているロンドン塔は、かつては監獄であり処刑場でもあったわけです。

真偽の程は定かではありませんが、今だにアン・ブーリンの亡霊がロンドン塔に現れるという噂です。


2. 原題


この作品の作者は、不明とされています。
『アン・ブーリン』は、英語ではAnne Boleynと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery, London)で見ることが出来ます。






ハンス・ホルバイン『トマス・モア』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月20日(日)16時54分 | 編集 |
2011年2月20日(日) 


目次
1. トマス・モアの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『トマス・モア』です。

2011年2月20日ハンス・ホルバイン『トマス・モア』435

1. トマス・モアの悲劇


『ユートピア』という書物を著したことで有名なトマス・モア(1478-1535)は、ヘンリー8世(1491-1547)の下で大法官という役職に就くほどの優秀な官僚でした。

ヘンリー8世がローマ・カトリックから離れイングランド国教会の長となるという愚挙を遂行しようとする際に、勇気を持って反対の意思を表明したのがこのトマス・モア(Thomas More)だったわけです。

ヘンリー8世に反旗を翻したモアは、ロンドン塔に幽閉されてしまいます。
その後、塔内で処刑されました。

この辺りからヘンリー8世の暴君ぶりには、誰も逆らえなくなっていくわけです。

そして、ヘンリー8世は初代王妃キャサリンと離婚した後、2代目の王妃としてアン・ブーリンを迎えることになります。

明日に続きます。


2. 原題


ドイツの画家ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)が描いた『トマス・モア』は、英語ではSir Thomas Moreと言います。

この作品は、ニューヨークにあるフリック・コレクション(The Frick Collection)で見ることが出来ます。






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