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ベルト・モリゾ『ゆりかご』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月25日(水)13時48分 | 編集 |
記事のタグ: オルセー美術館
2010年8月25日


目次
1. 画家ベルト・モリゾ
2. 原題
3. 第三共和政の頃
4. ベルトの墓碑


1. 画家ベルト・モリゾ


2010年8月25日ベルト・モリゾ『ゆりかご』1 470

上掲のエドゥアール・マネ作『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』でモデルとなっているベルト・モリゾ(Berthe Morisot)は、印象派の画家でもありました。

美貌の画家ベルト・モリゾ(1841-1895)が残した作品に、下掲の『ゆりかご』があります。
制作年は、1872年になっています。

2010年8月25日ベルト・モリゾ『ゆりかご』2 413

向かって左で赤ん坊を見つめているのは、ベルトの姉エドマ(Edma Pontillon)です。
赤ん坊は、エドマの娘でブランシュ(Blanche)と言います。

この作品は、1874年の4月から5月にかけて開催された第1回印象派展に出品されました。

師匠であるエドゥアール・マネは、ベルトに対して印象派展への出品を思い止まるよう説得しまし
た。

権威のあるサロンではなく新興展示会に出品することに対して、マネは意義を見出すことが出来なかったのでしょう。

しかし、それでもベルトは自らの意志を貫きました。

ベルトがエドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚したのは、1874年12月です。
この1874年という年は、ベルトの人生にとっては大きな転換点となりました。


2. 原題


『ゆりかご』は、フランス語ではLe berceauと言います。
berceauが、ゆりかご、という意味です。

この作品は、オルセー美術館(Musée d'Orsay)が所蔵しています。


3. 第三共和政の頃


この3日間で取り上げた3つの絵画は、奇しくも制作年が同じ1872年でした。

1872年のフランスというのは、普仏戦争(1870-1871)に敗北してそれに連なる政治体制の変化を経験していた頃です。

ナポレオン3世が率いる第二帝政(1852-1870)下のフランスは、プロイセン王国と戦争をして完全に敗れ去りました。

ナポレオン3世(1808-1873)は普仏戦争後、亡命先のイギリスで亡くなります。

そしてフランスは、第三共和政(1870-1940)の時代に入ります。

1872年において、エドゥアール・マネ(1832-1883)は40歳、ベルト・モリゾ(1841-1895)は31歳でした。

芸術家であるマネとベルトの目には、この敗戦と社会の変革がどのように映っていたのでしょうか?


4. ベルトの墓碑


1883年4月に、エドゥアール・マネは壊疽(えそ)にかかった左脚を切断します。
そして、その10日後の4月30日に51年の生涯を閉じました。

ベルト・モリゾは、エドゥアール・マネの死後も創作活動を続けます。
そして、1895年に肺炎によりこの世を去りました。

現在ベルトはパリ16区にあるパッシー墓地(Cimetière de Passy)に、エドゥアール・マネ及び夫ウジェーヌ・マネと共に眠っています。

彼女の墓標には、次のように刻まれているだけです。


"Berthe Morisot, veuve d'Eugène Manet"

ベルト・モリゾ、ウジェーヌ・マネの未亡人


マネ及びベルトのシリーズは、これでおしまいです。

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エドゥアール・マネ『扇子を持つベルト・モリゾ』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月24日(火)12時57分 | 編集 |
記事のタグ: オルセー美術館
2010年8月24日


目次
1. マネと黒
2. 原題
3. マネとモネはどう違うか?


今回取り上げる作品は、エドゥアール・マネ作『扇子を持つベルト・モリゾ』です。

2010年8月24日エドゥアール・マネ『扇子を持つベルト・モリゾ』1 465

1. マネと黒


マネは2010年8月23日の記事『エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』 loro2012.blog』で取り上げた『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』以外にも、ベルトをモデルにした作品を数点描いています。

『扇子を持つベルト・モリゾ』は、『すみれの・・・』と同様に1872年に制作されました。
ベルトの美しい顔が扇子で隠れながらも、隙間から少しだけ見えるという描き方をしています。

マネは黒を使うことを好んだ画家です。
ベルトが履いている靴の色が、衣装や壁の色との対比効果を生み出しているのだと思います。


2. 原題


『扇子を持つベルト・モリゾ』は、フランス語ではBerthe Morisot à l'éventailと言います。
l'éventailが扇子という意味です。

この作品はオルセー美術館(Musée d'Orsay)が所蔵しています。


3. マネとモネはどう違うか?


ご存じない方のために、似たような名前の画家マネとモネとの違いをお話します。


1) エドゥアール・マネ


エドゥアール・マネ(1832-1883)は近代絵画の父とも称され、後の印象派の画家たちに多大な影響を与えた人物です。

マネ自身は、印象派展には一度も出品したことがありません。
従って、彼を「印象派の画家」と呼ぶ専門家はいませんね。

このエドゥアール・マネ(Édouard Manet)に影響を受けた画家がモネなのです。


2) クロード・モネ


クロード・モネ(1840-1926)は、『睡蓮』の連作などで知られる印象派の巨匠です。
直接的にマネとの間に師弟関係があったわけではありません。

明瞭な色彩感覚を前面に打ち出したマネの画風を、「印象派」の作風として確立させたのがクロード・モネ(Claude Monet)と言えるでしょう。

当初、松方幸次郎が購入し、現在国立西洋美術館(東京・上野公園)に常設展示されているクロード・モネ作『睡蓮』はこちらです。

2010年8月24日エドゥアール・マネ『扇子を持つベルト・モリゾ』2 336

明日は画家ベルト・モリゾの作品を取り上げます。




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エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月23日(月)12時06分 | 編集 |
記事のタグ: オルセー美術館
2010年8月23日


テレビでの放送日:2010年5月11日(火) 番組名:ぶらぶら美術博物館(BS日テレ)

目次
1. 三菱一号館とは何か?
2. 一線は越えたのか?
3. 原題


1. 三菱一号館とは何か?


2010年4月6日に、三菱一号館美術館が開館しました。

2010年8月23日エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』1 213

「三菱一号館」という建物の名称には、ちゃんと由来があります。

明治の時代に三菱財閥が初めて手掛けたオフィスビルが、この千代田区丸の内の土地に建設されたのでした。

現在の賑わいからは想像も出来ませんが、明治20年代の丸の内には建物など何もなかったそうです。

そんな活気のない街に初めて建てられた本格的なオフィスビルということで、「一号館」と命名されたわけです。

明治期に完成した「一号館」は、1960年代に地域の再開発が進む中で一旦解体されました。

そして2009年に、明治期の外観や内装などを出来る限り忠実に復元した建物が竣工し、美術館として生まれ変わったのです。

三菱一号館美術館では、2010年7月まで「マネとモダン・パリ」と銘打った開館記念展が開催されていました。

開館記念展では、主にフランスの画家エドゥアール・マネの作品が、数多く展示されていました。
マネの作品がここまで揃っている展示会は、もう二度と無いのではないかとも言われています。

このブログでは、マネの描いた作品の中で肖像画の傑作と言われる『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』をご紹介します。

2010年8月23日エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』2 470

2. 一線は越えたのか?


この肖像画に描かれた美人は、ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)と言います。

ベルトは、マネの作品において何度もモデルを務めています。
そして、彼女自身も印象派の画家でした。

この絵画における彼女の愛情のこもった熱い視線を見ていれば、ベルトが恋をしている女性であることは容易に見抜けるでしょう。

当然その相手は、彼女の目の前でこの絵を描いているマネということになります。

絵画の完成後100年以上が経過していますが、ベルトの思いは現代を生きる私たちにも十分伝わって来ますよね。

そういった側面を踏まえて、マネとベルトとの間には男女の関係があったのではないかと想像する人も多いようです。

しかし当人たち及び周囲にいた人間は、その件については一切明かすこと無くこの世を去っています。
真相は、神のみぞ知るということですね。

マネは妻帯者でしたが、芸術家のご多分に漏れず結構遊び人だったようです。
いろんな女性との性的関係が、頻繁に噂されました。

彼は才能ある芸術家というだけでなく、端正な顔立ちでもありました。
そのため、多くの女性たちが彼に対して関心を寄せることになったようです。

そういったマネの男としての「実績」を踏まえて、ベルトとの性的関係も捉えられているわけです。

ただ、後にベルトはマネの弟と結婚することになるのです。
複雑な人間模様があったのかも知れません・・・。

続きます。


3. 原題


『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』は、フランス語ではBerthe Morisot au bouquet de violettesと言います。

le bouquetは、花束、la violetteは、すみれ、という意味です。
この作品は1872年に制作され、オルセー美術館(Musée d'Orsay)の所蔵となっています。




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クロード・モネ『印象・日の出』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月22日(日)14時51分 | 編集 |
2010年8月22日


目次
1. 印象派誕生の背景
1) 写真
2) 絵の具
2. 原題


今回取り上げる作品は、クロード・モネ作『印象・日の出』です。

2010年8月22日クロード・モネ『印象・日の出』1 258

1. 印象派誕生の背景


印象主義とは、見聞きした対象物をどのように心で感じたのかという主観的要素を前面に打ち出した芸術手法です。

従って、作者は自分の心で感じたことを作品の中で表現すればいいわけです。
写実主義のように、「正確であるか否か」という論点は無用になります。

2010年8月21日の記事『クロード・モネ『ルーアン大聖堂』 loro2012.blog.fc2.com』でご紹介したクロード・モネ(1840-1926)の『ルーアン大聖堂の正面とアルバーヌ塔(夜明け)(原題:Rouen Cathedral Façade and Tour d'Albane (Morning Effect))』も、写実とは対極にある心象風景の描写になっていますよね。

印象主義の流れが19世紀後半に形成されていった背景には、2つの画期的な発明がありました。


1) 写真


1825年頃に、写真という新技術が開発されました。
これによって、絵画界には大革新がもたらされたのです。

写真機が登場する以前は、人物を精緻に描く技術を有することが画家になるための条件となっていました。

人物描写というものは、画家個人の才能に負うところが大きかったわけです。

ところが、ありのままの姿を写し出してくれる写真機が発明されたことにより、画家に肖像画を描いてもらうよう依頼する人の数が次第に減っていきました。

それまで肖像画のモデルとなった人たちは、画家の指示に従って数時間も同じ姿勢で身動きも出来ないという苦痛を味わってきました。

こういった不利益から人々は解放されることになったわけですね。

写真技術の発達が、ルネサンス以来の伝統的な写実主義を過去のものにしてしまう大きな要因となったわけです。


2) 絵の具


もう一つ、印象派が台頭してくるための要素があります。
それは、チューブ入り絵の具の発明です。

19世紀前半までに活躍した画家というのは、絵を描く才能もさることながら絵の具を調合する技術も求められました。

画家は自分の描きたい色を自ら作り上げ、それを保管する必要がありました。
絵を描くことが上手い画家というのは、絵の具を作成することの上手い職人でもあったわけです。

ところが、現代私たちが目にしているようなチューブ入り絵の具が開発されたことにより、状況が一変します。

チューブ入り絵の具は、購入しさえすればすぐに絵が描けるようになります。
従って、絵の具を調合するという技術は、画家になるための必要条件ではなくなったわけです。

さらに、チューブ入り絵の具は持ち運びが簡単です。
画家たちが絵の題材を、戸外に求めていく原動力にもなりました。

画家たちが室内で肖像画を描いていた時代には想像もしなかった「画家のあり方」というものが、19世後半に誕生したのです。

このような技術革新がもたらされた時代に沿う形で、クロード・モネの『印象・日の出』は世に出ることになったわけです。


2. 原題


『印象・日の出』は、フランス語ではImpression, soleil levantと言います。
impressionが、印象、という意味ですね。

この作品は、パリのマルモッタン美術館(Musée Marmottan Monet)が所蔵しています。




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クロード・モネ『ルーアン大聖堂』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月21日(土)14時42分 | 編集 |
2010年8月21日


テレビでの放送日:2010年5月2日(日) 番組名:日曜美術館(NHK教育)

目次
1. 連作としての『ルーアン大聖堂』
2. 印象派とは何か?
1) 写実からの脱却
2) 作品の題名
3. 原題


5月2日(日)の日曜美術館(アートシーン)では、ボストン美術館展が紹介されていました。

2010年8月21日クロード・モネ『ルーアン大聖堂』1 230

2010年6月7日の記事『ウィリアム・ブグロー『兄弟愛』 ボストン美術館展の感想 loro2012.blog.fc2.com』でも、この展示会について触れたことがあります。

今回は、クロード・モネが1894年に制作した『ルーアン大聖堂の正面とアルバーヌ塔(夜明け)』という作品を取り上げます。

2010年8月21日クロード・モネ『ルーアン大聖堂』2 490

1. 連作としての『ルーアン大聖堂』


モネと言えば、『睡蓮』を思い浮かべる人も多いと思います。
この『ルーアン大聖堂』も、『睡蓮』と同様に連作になっています。

制作点数は、全部で30点に及ぶと言われています。

ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)が所蔵する『ルーアン大聖堂』には、夜明けのファサードが描かれています。

ファサードとは、建物の正面という意味です。

モネはこの作品以外にも、朝や昼などの時間帯に似たような構図でルーアン大聖堂を描いています。
従って、作品の題名をただ単に『ルーアン大聖堂』と言ったのでは区別が出来ません。

そこで、どの『ルーアン大聖堂』なのかを明確にするために長い題名になっているわけですね。

モネが描いた他の『ルーアン大聖堂(原題:La cathédrale de Rouen. Le portail, temps gris)』を、一つ見ておきましょう。

印象派の殿堂と呼ばれるオルセー美術館(Musée d'Orsay)が所蔵している作品です。

2010年8月21日クロード・モネ『ルーアン大聖堂』3 504

2. 印象派とは何か?


クロード・モネ(Claude Monet)は、印象派を代表する画家であるとよく言われます。
そもそも「印象派」とは何でしょうか?


1) 写実からの脱却


ルネサンス文化が花開いた15世紀以降、人物を写実的に描写することが絵画界の主流になっていきました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)やラファエロ(1483-1520)、さらにはルーベンス(1577-1640)、ベラスケス(1599-1660)といった巨匠たちの作品は、対象となる人物を画面の中に忠実に再現しています。

この写実主義と呼ばれる時代の潮流に終止符を打ったのが、モネを始めとした新進気鋭のフランス人画家たちだったのです。

モネ(1840-1926)やルノワール(1841-1919)など現代では高名な画家たちがまだ無名だった時代に、一つの展示会が開催されました。

この展示会を、印象派の画家たちの出発点と捉える人が多いです。


2) 作品の題名


1874年に開催されたその展示会は、後に「第1回印象派展」と呼ばれることになります。
しかし、この時点では「印象派」という呼称は存在していませんでした。

「印象派」という呼び名は、モネが展示会で発表した作品の題名から生まれました。
その作品とは『印象・日の出』です。

明日に続きます。


3. 原題


『ルーアン大聖堂の正面とアルバーヌ塔(夜明け)』は、英語ではRouen Cathedral Façade and Tour d'Albane (Morning Effect)と表記されています。

tourというのは、塔、という意味のフランス語で、そのまま英語の題名に使っています。




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ディエゴ・ベラスケス『ブレダの開城』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月13日(金)12時49分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2010年8月13日


テレビでの放送日:2010年4月30日(金) 
講座名:テレビでスペイン語 講師:貫井一美


目次
1. メントスとフリスク
2. 名誉を尊ぶスペイン人
3. 騎士道精神の勝利
4. 原題


「美術からひも解くスペイン vol.05」で取り上げられた絵画を、1点ご紹介します。

今日取り上げる名画は、ディエゴ・ベラスケス作『ブレダの開城』です。

2010年8月13日ディエゴ・ベラスケス『ブレダの開城』277

1. メントスとフリスク


ブレダというのは、オランダ南部に位置する都市の名前です。

現在では、ペルフェティ・ファン・メレ(Perfetti Van Melle)という製菓会社の本社がこの街にあります。
この会社は、メントスやフリスクを製造していることで知られています。

このブレダの地で、1625年にスペインとオランダが戦争を行いました。
ベラスケス(1599-1660)が描いているのは、その戦争が終結した時の様子です。

作品の制作年は、1635年頃とされています。
終戦後、約10年が経過した時点で完成した絵画ということになりますね。


2. 名誉を尊ぶスペイン人


307cm x 367cmという大画面の中に描かれているのは、名誉を重んじるスペイン人の姿であると言われています。

後世にまでその名誉を称えられているのは、画面中央の向かって右に描かれているアンブロジオ・スピノラ将軍です。

右肩から赤い布を掛けている人物です。

スピノラ将軍(1569-1630)は、スペイン人ではなくイタリアのジェノヴァ出身です。
出自はイタリア人ですが、この絵が描かれた当時はスペイン軍の指揮官としてこの戦争を勝利に導きました。

アンブロジオ・スピノラ(Ambrosio Espínola)に対して右手に持っている鍵を手渡そうとしている男性が、この戦争に敗れたブレダ側の指揮官です。

17世紀のブレダは、難攻不落の要塞都市として知られていました。
しかし、攻城戦を指揮したスピノラ将軍側の勝利に終わり、ブレダは陥落します。

敗者であるブレダ側は、スペイン軍が街に入場するための鍵を渡す必要があります。
この絵は、戦争に敗れたブレダ側が降伏の意思表示をしているところなのです。

従前の戦争観からいけば、敗者は勝者に対して跪(ひざまず)くことを求められ、屈辱的な敗戦処理を強いられることが通例でした。

ところが勝者であるスピノラ将軍は、敗れた相手に対して高圧的な態度で接するということが全くありませんでした。

スピノラは、敗者であるブレダ軍の兵士たちの立場や名誉を軽んずるようなことはしなかったのです。
こうしたスピノラの姿が、長い戦闘を終えたばかりの両陣営の人々に大きな感銘を与えました。

このスペイン国将軍の名誉ある行為は、伝説として語り継がれていくことになったわけです。


3. 騎士道精神の勝利


ベラスケスは、スピノラ将軍を馬上ではなく地上に降りた姿で描いています。
そして、向かって右には1頭の馬を象徴的に大きく描いています。

スピノラ将軍が敗者に対する敬意を表したことを端的に示すために、このような構図を採用したわけです。
騎士道精神というものが、当時のヨーロッパに存在したことを証明する作品と言えるでしょう。


4. 原題


『ブレダの開城』は、スペイン語ではLas lanzas, o La Rendición de Bredaと言います。
la Rendiciónは、城市の明け渡し、という意味です。

この作品は当初、ブエン・レティーロ宮殿(El Palacio del Buen Retiro de Madrid)に飾られていました。

現在では、プラド美術館(Museo del Prado)に所蔵されています。




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アルブレヒト・デューラー『若い野兎』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月12日(木)13時32分 | 編集 |
2010年8月12日


テレビでの放送日:2010年4月28日(水) 
番組名:世界の名画 ~華麗なる巨匠たち~(BS朝日)


目次
1. うさぎの水彩画
2. 原題


今回の放送ではアルブレヒト・デューラーが取り上げられました。

デューラー(1471-1528)はニュルンベルクを拠点に活躍したドイツのルネサンス期を代表する画家です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)やラファエロ(1483-1520)と同時代の画家です。


1. うさぎの水彩画


デューラーの天才ぶりを示す水彩画『若い野兎』を御覧下さい。

2010年8月12日アルブレヒト・デューラー『若い野兎』372

この水彩画は1502年に制作されました。
デューラーが30歳を過ぎた頃の作品です。

この表現力はとても人間業とは思えません。
野うさぎの毛並みは一本一本が丁寧に描かれ、立体感を感じさせます。

目、鼻、爪などの描写は精緻を極めていますね。

「写真のようである」という感想を述べることが出来なかった当時、どのように人々から評されていたのか興味のあるところです。

右の瞳に描かれているのは窓枠です。
これによって、この作品が屋外ではなくアトリエで描かれたものであることがわかるのです。


2. 原題


アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)が制作した『若い野兎』はドイツ語ではFeldhaseと言います。

das Feldは野原、der Haseが野ウサギという意味です。
この作品はウィーンにあるアルベルティーナ美術館(Albertina)の所蔵となっています。




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エル・グレコ『祈る聖ドミニクス』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月11日(水)14時29分 | 編集 |
2010年8月11日


テレビでの放送日:2010年4月27日(火) 番組名:ぶらぶら美術博物館(BS日テレ)

目次
1. フェリペ2世の時代
2. 聖ドミニクス


4月27日の『ぶらぶら美術博物館』では、『ボストン美術館展 西洋絵画の巨匠たち』が取り上げられました。

2010年8月11日エル・グレコ『祈る聖ドミニクス』1 230

六本木ヒルズ森タワー52階の、森アーツセンターギャラリーで開催されていた美術展です。

ボストン美術館が大規模な改修工事に入ることに伴い、所蔵している絵画が貸し出されることになりました。

ベラスケス、レンブラント、ゴッホ、ルーベンス、マネ・・・、数多(あまた)の巨匠たちが制作した作品が番組では紹介されていました。

このブログでは、エル・グレコの『祈る聖ドミニクス(原題:Saint Dominic in Prayer)』を取り上げます。

2010年8月11日エル・グレコ『祈る聖ドミニクス』2 423

1. フェリペ2世の時代


エル・グレコ(1541-1614)は、ギリシアのクレタ島出身の画家です。

イタリアでの修業時代を経て、30歳代半ばでスペインのトレドに渡りました。
トレドはスペイン中部の都市で、マドリッドの南に位置します。

彼がスペインに到着した頃は、ちょうどフェリペ2世(在位:1556-1598)が絶対君主として君臨していた時代です。

過日の記事で少しだけ触れたことがありますが、スペインの領土が最も拡大したのは、このフェリペ2世の治世下なのです。

なお、エル・グレコという名前は彼の本当の名前ではありません。
エル・グレコとは、彼がスペインに渡ってから呼ばれた通称です。

通称がいつの間にか、本当の名前のように受け止められてしまったということですね。

グレコ(greco)とは、イタリア語でギリシア人という意味です。
エルは、スペイン語の定冠詞です。


2. 聖ドミニクス


絵画に描かれている聖ドミニクス(1170-1221)は、スペイン生まれの修道士です。
スペイン語では、聖ドミンゴ(Santo Domingo)と言います。

聖ドミンゴは、13世紀初頭に成立したカトリックの修道会であるドミニコ会の創設者として知られています。

エル・グレコは全体的に暗い画風を好み、モデルを縦長に描くことが特徴です。
この作品も大地や空は不気味な様相を呈し、聖ドミニクスは物憂げな表情を浮かべています。

聖ドミニクスの血色は、不健康の域を超えているかも知れません。
何者かに導かれて、異界へと入り込んでしまったかのような感があります。

俗人には決して見ることの出来ない「別世界」へと通じる扉が、聖人には見えるのかも知れません。


東京におけるこの美術展は、終了しました。
2010年8月29日(日)まで、京都市美術館で開催されています。

私がボストン美術館展に行った時の感想は、2010年6月7日の記事『ウィリアム・ブグロー『兄弟愛』 ボストン美術館展の感想 loro2012.blog.fc2.com』で述べています。




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ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月03日(火)22時23分 | 編集 |
記事のタグ: ウフィッツィ美術館
2010年8月3日


ラジオでの放送日:2009年12月18日(金)、19日(土) 
講座名:イタリア語で”聴く”ルネサンスの名画 講師:松浦弘明

第12週 彫刻に接近する絵画 ーミケランジェロの人物描写ー
目次
1. 男性的なマリア
2. 5人の裸男
3. 彫刻が専門
4. 原題
5. シリーズ総括


最終第12週で取り上げるのは、ミケランジェロ作『聖家族』です。

2010年8月3日ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』1 1donitop

1. 男性的なマリア


この絵画における最大の特徴は、何と言ってもマリアの逞しい腕でしょうね。
マリアの腕をこのように袖をたくし上げた状態で描いた画家は、他にいないと思います。

しかも、左の肩や脇の下は完全に露出しています。
背後にいる夫のヨセフは衣服で腕が隠れていますので、全く対照的ですよね。

マリアの脇の下を描ける画家は、ミケランジェロをおいて他にはいないでしょう。


2. 5人の裸男


画面後方には、下半身を露(あらわ)にした5人の男の像が描かれています。
しかし、これの意味するところは今のところ解明されていません。

ただ、マリアの衣服の襞が克明に描かれているのとは異なり、その人物像にはボカシが入っています。
従って位置関係としては、聖家族からはかなり遠いところにいることが見て取れます。

ということは、空間軸だけでなく時間軸も大幅に遠ざかると解釈して、聖家族が誕生する以前の異教徒が支配していた時代を表しているのではないかという説を唱える人もいるようです。

しかも、裸体で描かれていることから連想出来るのは、その時代の宗教が未開、野蛮であったということです。

少なくともキリスト教徒達は、イエス誕生以前の世界をそのように捉えているということになるでしょう。

鮮やかな色使いの衣装を身に纏(まと)っているマリアと後方の裸体像を対比させることによって、キリスト教がそれ以前の宗教に比べて文化的にも進歩していることを示そうとする意図が感じられます。


3. 彫刻が専門


ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)は、画家というよりは彫刻家としての名声が優っていた人物です。

ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある『ピエタ』とか、フィレンツェのアカデミア美術館にある『ダビデ像』が有名ですね。

2010年8月3日ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』2+Michelangelo+s_Pieta_5450_cropncleaned_convert_20121211223210

2010年8月3日ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』3 David_von_Michelangelo

なお、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の前に置かれている『ダビデ像』は、アカデミア美術館(Galleria dell'Accademia)が所蔵している像の複製です。


4. 原題


『聖家族』は、イタリア語ではTondo Doniと言います。

「聖家族」をイタリア語に直訳すると、「聖なる」が「sacra」で、「家族」が「famiglia」ですので、『la Sacra Famiglia』となるはずなんですが、全く違う呼び名になっていますね。

tondoとは、美術用語で「円形画」を指します。

Doniは、この作品の制作を依頼したフィレンツェの商人アニョロ・ドーニ (Agnolo Doni)の名前に由来していると思われます。


5. シリーズ総括


全12週に渡って放送されたラジオ講座の内容に沿って、フィレンツェにあるウフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)が所蔵する作品を見てきました。

講師である松浦氏がテキストに記した専門的な表現をいくつかは借用しましたが、絵画に対する個人的な見解を概ね自分自身の言葉で述べました。

従って私がブログで述べた内容については、松浦氏の講座趣旨とは異なる部分が多いと思います。

今後、NHKの各言語講座で、このような美術に関する企画が実現することを願っています。

予備知識無しに、漠然と絵を見ることも一つの方法論ではあります。

しかし、その絵が描かれた時代背景や人間関係の知識があれば、より深く作品を理解出来ると思います。


このブログでは今後も歴史と語学という二つの切り口を使って、名画を学んでいきたいと考えています。

今のところ新企画として原稿を書き進めているのは、以下の4つです。

1: 旧約聖書
2: 新約聖書
3: ギリシア神話
4: ローマ建国史


出来る限り時系列で、それぞれの物語を取り上げるという方針で執筆作業を進めています。

原稿の全体像がほぼ確定した時点でアップロードを開始するつもりですが、まだ当分先になりそうです。

しばらくは、聖書や神話関連以外の名画を紹介していく予定です。







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ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月02日(月)13時30分 | 編集 |
2010年8月2日


ラジオでの放送日:2009年12月11日(金)、12日(土) 
講座名:イタリア語で”聴く”ルネサンスの名画 講師:松浦弘明

第11週 模倣から生まれる独創性 ーラファエロの芸術的基盤ー
目次
1. 『牧場の聖母』との類似性
2. 『岩窟の聖母』との類似性
3. 原題

2010年8月2日ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』1 475

上掲のラファエロ・サンティ作『ヒワの聖母』については、2010年7月3日の記事『ラファエロ・サンティ『小椅子の聖母』 loro2012.blog』の中で取り上げたことがあります。

ここでは繰り返しになることを承知で、改めてその特色を述べたいと思います。


1. 『牧場の聖母』との類似性


『ヒワの聖母』の製作年を明らかにする文献資料は残っていないのですが、一応1506年頃と推定されています。

その根拠は、ウィーンにある美術史美術館が所蔵している『牧場の聖母(別名『ベルヴェデーレの聖母』)と構図が似ているからです。

2010年8月2日ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』2 424

『牧場の聖母』の製作年は1506年と確定していますので、『ヒワの聖母』が完成したのも恐らく同時期であろうということです。

『ヒワの聖母』という名前は、向かって左側に描かれているヨハネが両手でヒワを持っていることに由来します。

ヒワという鳥は目の下が赤くなっているのが特徴です。

2010年8月2日ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』3 230

キリスト教ではヒワの目の下が赤いのは、十字架上のイエスが流した血を浴びたからであるとされています。

ヒワはイエス受難の象徴と見做(みな)されている鳥なのです。

向かって右側に描かれているイエスが右手でヒワを撫でながらどことなく辛い表情を浮かべているのは、自らの将来を暗示しているかのようですね。


2. 『岩窟の聖母』との類似性


ラファエロ・サンティ(1483-1520)はこの絵画を制作するにあたり、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の『岩窟の聖母』をお手本にしているのではないかと言われています。

2010年8月2日ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』4 528

レオナルドが制作した『岩窟の聖母』という題名の絵画は2点あり、パリのルーヴル美術館(上掲)とロンドンのナショナルギャラリー(下掲)にそれぞれ展示されています。

2010年8月2日ラファエロ・サンティ『ヒワの聖母』5 540

レオナルド・ダ・ヴィンチのこの2点は、どちらもピラミッド構図が用いられています。

この構図を採用することにより画面全体に安定感が増し、三角形の中に複数の登場人物たちをきちっと収めることが出来ます。

登場人物間の繋がりを強化するための手法として、ラファエロも『ヒワの聖母』においてこのピラミッド構図を採用しています。

恐らく、ラファエロはレオナルドの『岩窟の聖母』からこの画法を学んだのであろうと考えられています。


3. 原題


1) ヒワの聖母


『ヒワの聖母』はイタリア語ではMadonna del cardellinoと言います。
il cardellinoがゴシキヒワ(五色鶸)という意味です。

なお、この松浦弘明シリーズで取り上げている作品は、全てウフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)に所蔵されています。


2) 岩窟の聖母


『岩窟の聖母』はフランス語ではLa Vierge aux rochersと呼ばれています。
la Viergeは聖母マリア、le rocherは突出した岩という意味です。

『岩窟の聖母』は英語ではThe Virgin of the Rocksと呼ばれています。





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サンドロ・ボッティチェッリ『春』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年08月01日(日)14時46分 | 編集 |
記事のタグ: ウフィッツィ美術館
2010年8月1日


ラジオでの放送日:2009年12月4日(金)、5日(土) 
講座名:イタリア語で”聴く”ルネサンスの名画 講師:松浦弘明

第10週 人間性の本質の探求 ーボッティチェリの時代性と反時代性ー
目次
1. ボッティチェリ死後500年
2. 変身
3. 安全保障
4. 原題


第10週の作品は、サンドロ・ボッティチェッリ作『春』です。

2010年8月1日サンドロ・ボッティチェッリ『春』217

1. ボッティチェリ死後500年


この作品の中央で、赤い衣装を身につけているのがヴィーナスです。
ヴィーナスの上に浮かんで矢を射ようとしているのは、息子のキューピッドですね。

キューピッドが矢を向けている3人の女性たちは、三美神と言われています。
向かって右から美、純潔、そして愛を表しています。

キューピッドは三美神の誰かに狙いを定めているのですが、実は目隠しをしています。
これでは、誰に矢が当たるかはわかりませんね。

気まぐれなキューピッドの矢が当たってしまったばっかりに、恋の病に苦しんだ人々はボッティチェリの時代にも相当数いたのでしょうね。

今年(2010年)は、ボッティチェリ(1445-1510)が亡くなってからちょうど500年になります。
ルネサンス以来500年が経過しましたが、人間は恋の病を克服出来ていません。

キューピッドによる目隠し発射は、今だに続いているということですね。


2. 変身


画面向かって右端に、宙に浮いた格好で描かれているのが西風の神ゼフュロスです。
ぜフュロスに触られて求愛されているのが、ニンフのクロリスです。

ニンフとは、山や森などの大自然に宿る精霊のことです。
クロリスはゼフュロスからの求愛を拒むような素振りを見せていますが、結局受け入れます。

愛を受け入れた途端に、クロリスは花の女神フローラへと変身します。
クロリスの左側に描かれている、花柄のワンピースを着た女神がフローラです。

フローラは、愛を受け入れたクロリスの変身した姿なのです。


3. 安全保障


向かって一番左にいる男神は、商業の神メルクリウスです。
メルクリウスは、英語読みするとマーキュリー(Mercury)となります。

メルクリウスは何をしているのかと言うと、別にたわわに実ったオレンジを食べようとしているわけではありません。

彼は、ヴィーナスたちが暮らす庭園を守護しているのです。

メルクリウスは、腰から剣を下げて武装していますよね。
裸足の女神たちを守る役目を、彼は担っているわけです。

美しき女神たちと豊富な果実としてのオレンジ、そして咲き誇る花々・・・、

これらはいつの時代でも、悪党たちの格好の餌食になる可能性があります。
そのため、誰かが守らないといけませんね。

美しさや愛を保護するためには、武力が必要なんでしょうね。
何だか悲しい現実を突きつけられたような気になりますが・・・。

なおオレンジは、ボッティチェリを庇護したメディチ家の象徴とされています。


4. 原題


サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)が描いた『春』は、イタリア語で言うとPrimaveraです。

la primaveraは、春、という意味です。

この作品が制作されたのは1482年頃とされていますので、ボッティチェリ(1445-1510)は30歳代後半だったことになりますね。




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