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ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月29日(土)15時49分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年1月29日(土)


目次
1. 史実
2. 原題


今回取り上げる作品はウジェーヌ・ドラクロワ作『キオス島の虐殺』です。

2011年1月29日ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺』395

1. 史実


フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)が描いているのは歴史的な事実です。
1822年4月にギリシアのキオス島で大虐殺事件が起こりました。

当時のギリシアはオスマン・トルコ帝国(1299-1922)の支配下にありました。

ギリシア民族は異民族トルコによる支配から脱却するべく、1821年以降独立を求める戦いを各地で起こしていたのです。

そんな最中、エーゲ海に浮かぶ島キオスにオスマン・トルコ帝国の軍隊が上陸して来ました。
キオス島民たちはトルコ軍に対して無抵抗の状態でした。

にも関わらずトルコ軍は島民約二万人を虐殺します。
さらに四万人以上の島民を奴隷化したのです。

画面向かって右の、馬に乗ってターバンを頭に巻いているのがトルコ軍兵士です。
この兵士は情け容赦ない表情で島民たちを見下しています。

画面前景に描かれた島民たちは多くの仲間を殺されて失意の表情を示しています。

ギリシアがオスマン・トルコ帝国からの独立を求めたギリシア独立戦争は1821年に始まりました。

そして、最終的にギリシアの独立が国際的に承認されたのは1832年のことです。


2. 原題


ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)が描いた『キオス島の虐殺』はフランス語ではScène des massacres de Scioと言います。

le massacreは大量虐殺という意味です。

この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。




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レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月27日(木)15時57分 | 編集 |
2011年1月27日(木)


テレビでの放送日:2010年4月12日(月) 
番組名:名画への旅(NHKBShi)

目次
1. 始めに
2. ミラノの教会
3. 食堂の壁画
4. サンティアゴはどこにいるのか?
5. 原題


1. 始めに


NHKBSハイビジョンでは『名画への旅』という10分番組を毎週月曜日の19:50から放送しています。

10分という放送時間を考えると、NHKにとっては埋め草的な位置づけになっている番組なのかも知れません。
しかし、絵画を学ぶきっかけが欲しい私にとっては放送時間の長短はあまり問題ではありません。

今回取り上げるのはレオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』です。

2011年1月27日レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』182

2. ミラノの教会


レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の描いた『最後の晩餐』は、フィレンツェのウフィッツィ美術館やローマのヴァチカン美術館のような「美術館」に展示されているのではありません。

ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の敷地内に修道院があり、その中の食堂の壁に描かれたものが現存しているのです。

壁画の完成は1498年ですので500年以上の年月が経過しているわけです。

私も2005年のイタリア旅行の際にこの目で実物を見て来ました。

このイタリア旅行は30名ぐらいの団体ツアーだったのですが、壁画のある部屋に全員が一斉に入室することは許可されていないということで添乗員からグループ分けがなされました。

私と母とツアー仲間(夫婦)の計4名でこの壁画を見ることになりました。

見学を許可された時間は15分ぐらいだったと思います。

想像以上に広い空間を4人で独占する形になりましたので、思わぬ開放感に浸れたことを覚えています。

この壁画の寸法は縦460センチ×横880センチです。

テレビなどで縮小された姿しか見たことがありませんでしたので、横幅9メートル近いというのはやはり圧倒的な存在感がありました。

しかも、室内は薄暗くて幻想的な雰囲気が漂っているんですよ。
日常的な光を当ててしまうと、壁画の状態を維持することが出来なくなるのでしょうね。


3. 食堂の壁画


この世界的な大作が描かれた部屋は当初は食堂として使われていました。

そのために食べ物から発せられる湯気などの湿気に侵食されて、時間の経過とともにレオナルドの描いた本来の姿は失われてしまいました。

この作品は壁に描かれているのですがフレスコ画ではありません。
卵と油を主成分とするテンペラ画です。

テンペラ技法は壁画には不向きだったため、絵の具の剥落が完成直後から見られたそうです。

壁画の損傷や剥離が著しい部分については500年の間に何度か修復が行われたようです。
直近では20世紀(1977-1999)の大修復作業が有名ですね。

私が見てきたのはこの1999年の修復作業を経た後の壁画だったわけです。

ちょうどダン・ブラウンがこの『最後の晩餐』を題材にして、『ダ・ヴィンチ・コード』という推理小説を書いたことが世界的に話題になっていた頃でした。

日本での書籍発売は2004年5月ですので私がミラノへ行く1年前ということになります。

テレビなどでもこの壁画を取り上げた特別番組が再三組まれて、専門家達による様々な解説が毎月のように行われていました。

2005年にミラノでこの絵を見るにあたり予習をするという意味では、環境がうまい具合に整っていたのかしらと思います。

今では『ダ・ヴィンチ・コード』の話題なんて日本では全く聞かれなくなりましたからね。


4. サンティアゴはどこにいるのか?


サンティアゴ巡礼道で有名なサンティアゴ(Santiago)は、イエスの十二使徒の一人である聖ヤコブのスペイン語読みなのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)が描いた壁画の中でサンティアゴはどこにいるのかということですが、向かって右から5番目、両手を広げている人物が聖ヤコブ(サンティアゴ)です。

サンティアゴの右手がもう少しでイエスの左肩に触れるような距離感で描かれていますよね。

なお、イエスの十二使徒の中でヤコブという名前の聖人は2人います。
区別するために便宜上「大ヤコブ」と「小ヤコブ」という言い方をしますね。

私たちが普段聖ヤコブと言っているのは、向かって右から5番目の「大ヤコブ」を指していることがほとんどだと思います。

イタリア語ではヤコブをGiacomoと言います。
「大ヤコブ」はGiacomo il Maggioreと表記します。


5. 原題


最後に、レオナルドの描いた『最後の晩餐』はイタリア語で何て言うのかを見ておきましょう。
晩餐という難しい日本語を使っていますが、要するに夕食のことです。

そのまま直訳して、L'Ultima Cenaとなります。
あるいは、別の表現でIl Cenacoloと呼ばれる場合もあります。

la cenaには夕食という意味しかありませんが、il cenacoloは修道院内の食堂という意味があります。




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ジャック=ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月26日(水)16時25分 | 編集 |
記事のタグ: メトロポリタン美術館
2011年1月26日(水)


目次
1. 毒人参
2. 冤罪
3. 悪妻クサンティッペ
4. 原題


今回取り上げる作品は、ジャック=ルイ・ダヴィッド作『ソクラテスの死』です。

2011年1月26日ジャック=ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』218

1. 毒人参


フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)は、ソクラテスが毒杯を仰ぐ直前の場面を描きました。

画面中央で左手の人差し指を付き出して、右手で盃を取ろうとしているのがソクラテス(紀元前469頃-紀元前399)です。

ソクラテスが手にしようとしている盃には、毒人参の液体が入っています。
当時のアテネで行われていた死刑の方法は、死刑囚が自ら毒人参を飲むこととされていました。

ドクニンジンとは、中枢神経の働きを犯す成分を有する有毒植物です。

向かって左で赤い服を着て右手で盃を差し出しているのは、死刑執行の官吏です。

官吏は、左手で顔を抑える仕草をしています。
彼は、ソクラテスのような賢人を死刑に追い込むという社会の不条理を嘆いているのでしょう。

その向かって左で着座してソクラテスに背を向けているのは、弟子のプラトン(紀元前427-紀元前347)ではないかとされています。


2. 冤罪


ソクラテスの罪状は、アテネの神々を信仰せず若者を堕落させたことです。
実際にソクラテスには、そのような意図はありませんでした。

完全な冤罪です。

しかし、知識人と称する人々はソクラテスから完膚なきまでにその無知を暴かれていました。
そういったソクラテスの活動に対して、権力を持っていた人々は憎悪を募らせていったのです。

何だか、イエスと似たような話ですね。


3. 悪妻クサンティッペ


画面後景向かって左で赤い服を着ている女性は、ソクラテスの妻クサンティッペであるとされています。

クサンティッペは、右手を上げています。

この角度ではソクラテスの姿は見えないと思いますが、最後の別れをしているつもりなのかも知れません。

クサンティッペは、世界三大悪妻の一人とされています。

クサンティッペは、夫ソクラテスと言い争いをした後、激情して夫の頭から水をかぶせたという話が残っています。

賢人ソクラテスも、妻の扱いにはかなり苦労したようです。


4. 原題


ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)が描いた『ソクラテスの死』は、英語ではThe Death of Socratesと言います。

この作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)で見ることが出来ます。




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レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月24日(月)16時05分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月24日(火)


目次
1. マウソロスの妻
2. 世界の七不思議
3. 原題


今回取り上げる作品はレンブラント・ファン・レイン作『アルテミシア』です。

2011年1月24日レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』310

1. マウソロスの妻


オランダの画家レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)が描いているのはカリア国の統治者マウソロスの妻アルテミシアです。

カリア国は現在のトルコのアジア地域に同定されています。

マウソロスはカリア国王ではなく、カリア地域を統治していたアケメネス朝ペルシアのサトラップでした。

サトラップとは現在の州知事のような立場と捉えられています。

作品に描かれたアルテミシアはマウソロスの妹であり妻です。
当時のカリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習となっていました。


2. 世界の七不思議


紀元前353年にマウソロスは亡くなります。
そして妻アルテミシアがマウソロスのサトラップの地位を継承します。

サトラップとなったアルテミシアはマウソロスのための壮麗な霊廟を建設することにしました。
マウソロス霊廟の建設地として選ばれた街はカリア国の首都ハリカルナッソスです。

ハリカルナッソスは現在のトルコ西部にある港湾都市ボドルムに同定されています。

レンブラントはマウソロスが亡くなった後のアルテミスの姿を描いています。

作品の中で侍女がアルテミスに差し出しているのは葡萄酒です。
この葡萄酒の中には亡き夫マウソロスの遺灰が混ざっているのです。

寡婦となったアルテミシアは、そこまで夫のことを愛していたということです。
アルテミシアは夫の死から二年後の紀元前351年に亡くなったとされています。

マウソロス霊廟はアルテミスが亡くなった翌年、紀元前350年に完成しました。
この霊廟は後に古代世界の七不思議の一つに数えられることになります。

マウソロス霊廟は現存せず、遺跡がボドルム市内に残されています。


3. 原題


レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)が描いた『アルテミシア』はスペイン語ではArtemisia II de Cariaと言います。

この作品はプラド美術館で見ることが出来ます。


2012年5月25日(金)追記


現在プラド美術館は、この絵画をアルテミシアではなくユディットを描いたものだと解釈しているようです。

この絵画の題名はスペイン語では、Judit en el banquete de Holofernesと言います。

邦題は『ホロフェルネスの酒宴におけるユディト』となります。




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ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月24日(月)12時53分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月24日(月)


目次
1. 労(いたわり)りの心
2. コンベルソ
3. 原題


1. 労(いたわり)りの心


ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)は、2011年1月23日(日)の記事『ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』 loro2012.blog.fc2.com』で取り上げた『ラス・メニーナス』以外にも、宮廷にいる人々を描いた作品を数多く残しています。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』1 449

上掲の『セバスティアン・デ・モーラ』とか、下掲の『道化ディエゴ・デ・アセド "エル・プリモ"』などはその代表例であり、彼の卓越した写実能力によってモデルになった人物たちの知性や思慮深さが表現されています。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』2 432

ベラスケス(1599-1660)の生きた17世紀のマドリッド宮廷内では、この2つの絵画に描かれた男性たちのような小人症(こびとしょう)という病態を有する者が、王一族とともに暮らしていました。

そして、必要とあらば彼らは道化の役割を演じるということもあったようです。

絵画に描かれた彼らの視線に注目して下さい。

ベラスケスは、モデルの目の位置よりも低いところから、彼らを描こうとしていたことが読み取れます。

ベラスケスの持つ人間としての温かみが、作品を通して伝わって来ますよね。

敗者への労(いたわ)りを主題とした『ブレダの開城』という作品にも、彼の思いの一端を感じ取ることが出来るでしょう。

2011年1月24日ディエゴ・ベラスケス『セバスティアン・デ・モーラ』3 277

なぜ彼が多くの作品をそのような趣旨で描いたのかという理由として、彼の出自というものが関係していたのではないかと考える研究者もいます。

それは、コンベルソの問題です。


2. コンベルソ


コンベルソ(converso)とは、スペイン語でユダヤ教からカトリックへ改宗した者を指します。

レコンキスタ(711-1492)を完成させたカスティーリャ女王のイサベル1世(1451-1504)は、国家統合政策の一環としてイベリア半島に暮らしていたユダヤ人勢力を排撃する動きを示しました。

イサベル1世は夫であるフェルナンド2世(アラゴン王)とともに、ローマ教皇から「カトリック両王」の称号を授けられたというぐらいのカトリック信奉者でした。

従って、この女王が治める土地においてユダヤ教徒であることを貫くということは、大きな負の要素を抱えて生きていくことを意味したわけです。

そうした時代の流れを敏感に感じ取ったユダヤ教徒たちは、次々とカトリックに改宗していきます。

スペインという枠組みの中で一家全員が安泰に生きていくためには、改宗するという現実的な判断を迫られたということですね、

この改宗者(コンベルソ)の中に、ベラスケスの父方の祖父がいたのです。

フェリペ4世(1605-65)に引き立てられて、貴族にまでなったベラスケスは生涯この自分の出自を隠し通しました。

当時のスペイン宮廷社会においてコンベルソの出身であることを明らかにすることは、政治生命の終わりを意味したからです。

当時は、宗教的な「血統」も重視された時代ですので、「改宗組」はその末裔も含めて本流ではないという評価を受けたわけですね。

ベラスケスの描く作品に弱者への思いやりが感じられる一つの要因として、このコンベルソの件を挙げることが出来るかも知れません。


3. 原題


今回ご紹介した3点は、全てプラド美術館(Museo Nacional del Prado)の所蔵となっています。

『セバスティアン・デ・モーラ』は、スペイン語ではEl bufón don Sebastián de Morraと言います。

『道化ディエゴ・デ・アセド "エル・プリモ"』は、スペイン語ではEl bufón don Diego de Acedo, "el Primo"と言います。

el bufónは、「道化」という意味です。

『ブレダの開城』は、スペイン語ではLas lanzas, o La Rendición de Bredaと言います。
la Rendiciónの語義は、降伏とか城市の明け渡し、です。

なお、『ブレダの開城』については2010年8月13日の記事『ディエゴ・ベラスケス『ブレダの開城』 loro2012.blog.fc2.com』で詳しく取り上げています。




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ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月23日(日)12時40分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2011年1月23日(日)


テレビでの放送日:2010年4月11日(日) 番組名:日曜美術館(NHK教育)

目次
1. 貴族ベラスケス
2. 原題


2010年11月16日(火)の記事『ディエゴ・ベラスケス『フェリペ・プロスペロ王子』 loro2012.blog』で、スペイン・ハプスブルク家の血統を話題にした時に、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の描いた『ラス・メニーナス』を紹介したことがあります。

2011年1月23日ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』382

その時の記事はマルガリータ王女を中心に構成したのですが、今回はベラスケスとはどういう人物なのかという視点で述べたいと思います。


1. 貴族ベラスケス


ベラスケス(1599-1660)はスペイン南部の都市セビリアに生まれ、20代でフェリペ4世(1605-65)付きの宮廷画家となりました。

『ラス・メニーナス』以外にも、国王一家及びその周辺にいる人々の肖像画を数多く残しています。

フェリペ4世はベラスケスの持つ画家としての才能だけでなく、国王側近としての実務能力も認めていました。

ベラスケスの署名入りの請求書が残っていることから、彼は創作活動の傍らで経理事務を行っていたことがわかります。

また、国王から貴族の称号も与えられています。

ベラスケスにとって貴族の称号というのは、どうしても手に入れたいものでした。

当代一流の画家としての名声以上に価値を感じられる社会的地位の象徴・・・、それが貴族の称号だったわけです。

『ラス・メニーナス』の中で彼は貴族の証である赤い紋章の入った黒衣を身に纏(まと)っている自分の姿を描いています。

紋章に対するこのような思い入れは一体どこから来ているのでしょうか?
明日に続きます。


2. 原題


『ラス・メニーナス』は、スペイン語ではLas Meninasと言います。
la meninaは女王や王女に仕える女官という意味です。

この絵画では王女マルガリータに侍(はべ)る女性が複数描かれていますので、定冠詞や名詞も複数形になっているわけです。

製作年は1656年ですのでベラスケス(1599-1660)晩年の作品ということになりますね。

寸法は縦318cmx横276 cmです。
圧倒されそうな巨大な絵画です。

この絵画はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)に所蔵されています。




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ヘラルト・ファン・ホントホルスト『女衒』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月22日(土)12時48分 | 編集 |
2011年1月22日(土)


目次
1. 女衒
2. リュート
3. 原題


今回取り上げる作品は、ヘラルト・ファン・ホントホルスト作『女衒』です。

2011年1月22日ヘラルト・ファン・ホントホルスト『女衒』227

1. 女衒


女衒(ぜげん)とは人身売買の仲介業に従事する女性を指します。
女衒が仲介対象とするのは若い女性で仲介先は遊郭です。

オランダの画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト(1592-1656)の作品では、向かって左に描かれている老婆が女衒です。

向かって右の若い女性が娼家(しょうか)で勤めている女性です。
娼家とは遊女屋のことです。

中央の男性は女衒の導きでこの若い女性と顔を合わせることになったわけです。

この男性は左手に財布を握り締めています。
袋の厚みからしてかなりのお金が入っているものと思われます。

差し出した右手の掌には数枚の金貨が載っています。
男性はこの女性のことが気に入った証として、ひとまず手付金を払っているところなのでしょう。

男の表情は全く読み取れませんが、視線は間違いなく女性の胸元へ注がれているはずです。


2. リュート


若い女性が左手で持っている楽器はリュートです。
リュートとはマンドリンに似た弦楽器です。

この作品に描かれたリュートの意義は音楽とは無関係です。
実はリュートは膣(ちつ)の象徴として描かれているのです。

蝋燭の炎を挟んだ男女の商談は女衒の目論見通り成立しました。


3. 原題


ヘラルト・ファン・ホントホルスト(Gerard van Honthorst)が描いた『女衒』は、英語ではThe procuressと言います。

the procuressは売春斡旋業に従事する女性という意味です。

この作品はオランダ中部の街ユトレヒトにある中央美術館で見ることが出来ます。




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ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月21日(金)12時27分 | 編集 |
記事のタグ: ゴダイヴァ夫人
2011年1月21日(金)


目次
1. ピーピング・トム
2. ゴディバのチョコレート
3. 原題


今回取り上げる作品は、ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月21日ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』1 508

1. ピーピング・トム


フランスの画家ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(1836-1911)は、白馬の背に乗って全裸で街を巡回するゴダイヴァを描きました。

ゴダイヴァは豊満な胸を腕で隠し、長い髪で左の上半身を覆っています。

コヴェントリーで暮らす全ての住民は、ゴダイヴァの立場を考えて屋内に引き篭っていました。
しかし、どんな世界にも例外はあります。

仕立屋のトムだけはゴダイヴァの巡回する姿を盗み見してしまったのです。
トムは領主の妻の熟れた肉体を見たいという欲望に負けてしまいました。

この後、トムは神罰を受け失明します。

このトムが覗き見した話を語源として、Peeping Tomという言葉が生まれました。

英語でpeepは覗き見するという意味の自動詞です。
Peeping Tomは「裸の女性を覗き見する男」という意味の成句です。

日本語では覗きの常習犯のことを出歯亀(でばがめ)と言います。
出歯亀は出っ歯の池田亀太郎による猟奇殺人事件が語源です。


2. ゴディバのチョコレート


ゴディバはベルギーで創業されたチョコレートの会社として有名です。
ゴディバという会社名はこのゴダイヴァの話に因んだものなのです。

ゴダイヴァの勇気と人々への愛に感銘を受けた創業者が、会社をゴダイヴァと名付けたわけです。

ゴディバの設立は1926年ですから、ゴダイヴァ(990頃-1067頃)の頃から900年ぐらい経っていますね。

ゴダイヴァ(Godiva)は英語読みです。
フランス語読みをするとゴディヴァになります。

日本では片岡物産がゴディバ製品を扱っていて、表記は「ゴディバ」になっています。

2011年1月21日ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル『ゴダイヴァ夫人』2 207

ゴディバのブランドを示すマークは、馬に跨った髪の長い裸婦です。
この女性はコヴェントリーのゴダイヴァを表しているわけです。


3. 原題


ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(Jules Joseph Lefebvre)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、フランス北部の街アミアン(Amiens)にある美術館(Musée de Picardie)で見ることが出来ます。

ゴダイヴァ夫人の3回シリーズは、これでおしまいです。




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ジョン・コリア『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月20日(木)14時18分 | 編集 |
記事のタグ: ゴダイヴァ夫人
2011年1月20日(木)


目次
1. 全裸での巡回
2. 原題


今回取り上げる作品は、ジョン・コリア作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月20日ジョン・コリア『ゴダイヴァ夫人』239

1. 全裸での巡回


マーシア伯レオフリックの夫人ゴダイヴァは、人民を助けるために全裸で馬に跨(またが)り、城下を巡回することになりました。

ゴダイヴァは、夫レオフリックが提示した条件を受け入れ、恥ずかしさを乗り越えて全裸姿を人々の目に晒すことを決意したのです。

ゴダイヴァは領主の妻として、常日頃、威厳ある態度で下々の人間たちと接して来ました。
そしてこの巡回後も、領主の妻としての立場は続いて行きます。

そこで、ゴダイヴァは一計を案じ、コヴェントリーに住む人々に対して次のような布告を出しました。

巡回当日の外出は、禁止とする。
巡回当日は、戸や窓を全て閉めておくこと。

こうしておけば、全裸で街を巡回するゴダイヴァの姿を誰も見ることは出来ません。

ゴダイヴァは、全裸姿を誰からも見られないのであれば、何とかこの犠牲に耐えられるという判断をしたわけです。

コヴェントリーの住民達は、ゴダイヴァの犠牲的行為を支持します。
そして、巡回当日はゴダイヴァの指示通り、家の中にいて戸や窓を完全に閉ざしたのでした。

イギリスの画家ジョン・コリア(1850-1934)は、全裸で馬に跨っているゴダイヴァの姿を描きました。

美しい素肌を出来る限り長い髪で隠しながら、ゴダイヴァはコヴェントリーの街を巡回したのです。

ゴダイヴァの官能的な裸体を見たのは、馬丁(ばてい)と白馬だけ・・・、のはずでした。
ところが、裏切り者がいたのです。


2. 原題


ジョン・コリア(John Collier)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、コヴェントリー(Coventry)にあるハーバート美術館(Herbert Art Gallery and Museum)で見ることが出来ます。





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エドモンド・レイトン『ゴダイヴァ夫人』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月19日(水)23時14分 | 編集 |
2011年1月19日(水)


目次
1. コヴェントリーの領主夫人
2. 原題


今回取り上げる作品は、エドモンド・レイトン作『ゴダイヴァ夫人』です。

2011年1月19日エドモンド・レイトン『ゴダイヴァ夫人』276

1. コヴェントリーの領主夫人


イングランドの中部に、コヴェントリー(Coventry)という街があります。
11世紀にこの街を治めていた領主は、マーシア伯レオフリックという男でした。

レオフリックは傲慢な領主だったため、人々はその政治体制に苦しめられていました。

レオフリックには、ゴダイヴァ(990頃-1067頃)という妻がいました。
ゴダイヴァは、夫が行う政治によって理不尽な苦しみを受けている民衆を気の毒に感じていました。

そして彼らの苦しみを救うために、夫レオフリックの圧政を常日頃から諌(いさ)めていました。
口うるさく忠告するゴダイヴァに対して、苛立ったレオフリックは次のように言いました。

「そこまで言うのであれば、お前の諫言(かんげん)を受け入れて政治を改めてやっても良い。
その代わり、一つ条件がある。
裸になって馬に乗り、城下を巡回しろ。」

レオフリックは、妻ゴダイヴァが到底受け入れられないであろう条件を突きつけたのです。

ところが、ゴダイヴァは民衆のために夫の提示した条件をのむことにしました。
つまり、全裸になって馬に跨(またが)り城下を一周するという条件を受け入れたのです。

イギリスの画家エドモンド・レイトン(1853-1922)が描いているのは、ゴダイヴァがその決心をした瞬間です。

画面中央で、白い服を着て立っているのがゴダイヴァです。
向かって右に立っている男が、夫のレオフリックです。

貞淑な妻ゴダイヴァは、人民のために羞恥を捨て去る決心をしたのです。


2. 原題


エドモンド・レイトン(Edmund Leighton)が描いた『ゴダイヴァ夫人』は、英語ではLady Godivaと言います。

この作品は、イングランド北部の町リーズ(Leeds)にあるリーズ・アート・ギャラリー(Leeds Art Gallery)で見ることが出来ます。




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エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月14日(金)13時53分 | 編集 |
2011年1月14日(金)


目次
1. 左脇腹の傷
2. 原題


今回取り上げる作品は、エドゥアール・マネ作『死せるイエス・キリストと天使たち』です。

2011年1月14日エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』1 403

1. 左脇腹の傷


イエスが十字架上で右脇腹を刺されたことは、キリスト教徒なら皆が知っていることだとされています。

ところが、エドゥアール・マネ(1832-1883)はその常識を無視し、左の脇腹に刺された痕を描きました。

両手両足には伝統的なキリスト教の言い伝えに則って、釘を刺された後の傷がちゃんと描かれています。

マネが、どういう意図で左脇腹に刺し傷を描いたのかはわかりません。
もしかしたら、これにより話題を巻き起こし有名になろうとしたのかも知れません。

ただ、この作品以上に物議を醸した『草上の昼食』は、これよりも1年早い1863年のサロンに出品されています。

2011年1月14日エドゥアール・マネ『死せるイエス・キリストと天使たち』2 264

『死せるイエス・キリストと天使たち』を制作した1864年の時点では、マネはもう既に業界ではかなりの有名人だったと思います。

ただ、当時の保守派からは、その真価を認めてはもらえませんでした。

そこで、「左脇腹の傷」という誰も思いつかない「嘘」を題材にして、絵画の本質よりも話題性を優先させようと思ったのかも知れません。

結果的には、マネの狙いは当たったと言えるんじゃないでしょうかね。


2. 原題


エドゥアール・マネ(Édouard Manet)が制作した『死せるイエス・キリストと天使たち』は、英語ではThe Dead Christ with Angelsと言います。

この作品は、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)に所蔵されています。




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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『悔悛するマグダラのマリア』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月13日(木)16時33分 | 編集 |
記事のタグ: エルミタージュ美術館
2011年1月13日(木)


目次
1. 髑髏
2. 原題


2011年1月8日(土)の記事『ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『懺悔するマグダラのマリア』 loro2012.blog』で、ティツィアーノ作『懺悔するマグダラのマリア』を取り上げました。

今回取り上げる作品も、ティツィアーノが描いた同じ趣旨の作品『悔悛するマグダラのマリア』です。

2011年1月13日ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『悔悛するマグダラのマリア』420

1. 髑髏


ティツィアーノ(1490頃-1576)は画面向かって右下に髑髏(どくろ)を描いています。
髑髏は死の象徴です。

マグダラのマリアは娼婦として生きた前半生を後悔し、死ぬほどの覚悟で悔悛の日々を送ったことが示されています。

懺悔というのは血を流すぐらいの苦しみがないと、天にはその心が伝わらないということでしょう。

髑髏の上に載っている書物は聖書だと思います。

救いの言葉は聖書の中にあると信じて、マリアが日々聖書を読んでいたであろうというティツィアーノの解釈ですね。

大粒の涙を零(こぼ)すマリアの端正な顔は、実在の女性であることを感じさせるような描き方になっています。

ふくよかな腕、豊麗な乳房、どれをとっても現実の女性が悔悛し苦しんでいる姿としてこの一場面が捉えられています。


2. 原題


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)が制作した『悔悛するマグダラのマリア』は、ロシア語ではКающаяся Мария Магдалинаと言います。

каятьсяは懺悔するという意味の不完了体動詞ですので、Кающаясяもその関係の語だと思いますが正確なところは不明です。

この作品はエルミタージュ美術館(Государственный Эрмитаж)で見ることが出来ます。




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ディエゴ・ベラスケス『卵を料理する老婆と少年』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月09日(日)13時56分 | 編集 |
2011年1月9日(日)


テレビでの放送日:2010年4月9日(金) 
講座名:テレビでスペイン語 講師:貫井一美


目次
1. 二十歳前の画風
2. 卵と老婆
3. 左手の卵
4. 原題


「美術からひも解くスペイン vol.02」で取り上げられた絵画、ディエゴ・ベラスケス作『卵を料理する老婆と少年』をご紹介します。

テキスト:2010年4月号 50ページ

2011年1月9日ディエゴ・ベラスケス『卵を料理する老婆と少年』284

1. 二十歳前の画風


この作品は、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)が故郷のセビリヤにいた頃に描いたものです。
製作年は1618年と確定されていますので、まだ二十歳にもなっていませんよね。

この若さでこの画風ですから、まさに天才です。

作者の名前を伏せられて、熟練した画家が描いた作品であると聞かされたら素直に信じてしまいますね。


2. 卵と老婆


赤い土鍋の中で調理されている卵が主題の一つになっていて、その柔らかい輪郭が際立っています。
焼き上がりつつある2つの卵以外にも、見事に描かれている要素がいくつかあります。

例えば、テーブルの上に載っている白い皿にはナイフの影が映っていますが、ちゃんとその影が向かって右側に湾曲していますよね。

主題の一人である老婆に対して、向かって左側から光が当たっていることが、ここにも抜かり無く表現されているわけです。


3. 左手の卵


老婆の左手には3つ目の卵が握られているのですが、これは料理をする立場になってみると不自然に思われます。

なぜかと言うと、土鍋の中にはこれ以上卵が入る余地は無いと思いますし、仮にあるとしたら最初から3つとも続けて割って中に入れれば良かったわけです。

あるいは、とりあえず2つの卵を焼き上げて皿に移してから、3つ目の卵を手にしてもちっとも遅くはありません。

にも関わらず、老婆はもう既に左手には卵を持って次の行動に移ろうとしています。

性急に事を運ぶ理由が何かあるのでしょうか?
しかし、無表情な老婆からは焦っている様子は感じられませんよね。

そして、2人の登場人物が共に両手に何かを持っていますよね。
これが見る者に忙(せわ)しなさを感じさせる要因となっているんだと思います。

焦っているわけではなさそうなのに、何となく忙しなさを感じさせる・・・、
こんな仕上がりになっている不思議な絵です。

前景にはすり鉢などの静物が数点描かれていますし、老婆同様少年も無表情です。

本来であれば、落ち着いた印象を与える作品になっていてもおかしくはないのです。
ところが、長閑(のどか)さというものは伝わっては来ませんね。

二人が着ている服装から推測すると季節は晩秋か冬でしょうね。

そして、太陽の光が部屋に差し込んでいますので、朝食の準備をしているのだと思います。
少なくとも夕食の準備ではないですね。


4. 原題


『卵を料理する老婆と少年』は、スペイン語だとVieja friendo huevosとなります。
el huevoの語義は鶏卵です。

friendoは他動詞freír(油で揚げる)の現在分詞です。
直訳すれば、卵を揚げている老婆ということになります。

英語の題名は、An Old Woman Cooking Eggsです。

この作品は、スコットランドのナショナルギャラリー(National Gallery of Scotland)で見ることが出来ます

スコットランドのナショナルギャラリーは、スペイン語だとLa Galería Nacional de Escociaと言います。




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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『懺悔するマグダラのマリア』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月08日(土)14時35分 | 編集 |
2011年1月8日(土)


目次
1. ティントレットの師匠
2. 原題


今回取り上げる作品は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作『懺悔するマグダラのマリア』です。

2011年1月8日ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『懺悔するマグダラのマリア』420

1. ティントレットの師匠


ティントレット(1518-1594)の師匠にあたるティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃-1576)は、『懺悔するマグダラのマリア』という主題で何点か作品を残しています。

今回の作品は、フィレンツェのピッティ美術館(別名パラティーナ美術館)が所蔵する作品です。
完成は1532年頃とされていますので、ティツィアーノが40歳代前半の作品です。

ルネサンス期の代表作とも言える絵画だけあって、写実主義が徹底されています。

ティツィアーノの描くマグダラのマリアは、聖書の中の女性と言うよりは、現実に存在している生身の女性として描かれているように思います。

画面向かって左下に描かれているのは、香油の入った壺です。

磔刑死したイエスの遺体は金曜日の夕方に、日が暮れるまでの僅かな時間を使っていったん墓に埋められました。

マグダラのマリアは日曜の早朝に、イエスの遺体に香を塗るために墓へ赴いたと伝えられています。
このことを踏まえて、ティツィアーノは香壺を描いているわけです。


2. 原題


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)が制作した『懺悔するマグダラのマリア』は、イタリア語ではSanta Maria Maddalenaと言います。

イタリア語の題名には、「懺悔する」という語は使われていません。

この作品は、フィレンツェにあるパラティーナ美術館(Galleria Palatina)で見ることが出来ます。




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フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2011年01月03日(月)11時52分 | 編集 |
2011年1月3日(月)


テレビでの放送日:2010年4月10日(土) 番組名:『美の巨人たち』(テレビ東京)

今回の『美の巨人たち』では、『ガブリエル・デストレとその妹』が取り上げられました。

2011年1月3日フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』1 255

この絵に描かれた乳首と指輪の意味は、未だに解明されていません。
この謎めいた絵画の背景にあるものを、独自の視点で述べていきたいと思います。


目次
1. アンリ4世
2. フォンテーヌブロー派
3. 愛妾の裸体
4. 妹の裸体


1. アンリ4世


絵画の向かって右側に描かれている女性が、ガブリエル・デストレ(1571-1599)です。

ガブリエル・デストレはフランス王アンリ4世の愛妾(あいしょう)です。
正式に王妃になる日を目前にして謎の死を遂げました。

食事の際に苦しみ出して急死したという状況から毒殺説が囁かれましたが、真相は依然として闇の中です。

アンリ4世(1553-1610。在位1589-1610)はブルボン朝初代の王です。
太陽王と呼ばれたルイ14世(1638-1715)は、アンリ4世の孫にあたります。

アンリ4世が開いたブルボン朝は、フランス革命によって第一共和政(1792-1804)が成立するまでの約200年間、フランスを支配したことになります。


2. フォンテーヌブロー派


1) この絵の作者は誰か?


この絵の作者は不詳です。

画家の個人名などは特定出来ませんが、「フォンテーヌブロー派」という画家の流派が「作者」ということになっています。

フォンテーヌブロー派(École de Fontainebleau)とは、フランスのルネサンス期にフォンテーヌブロー宮殿で活躍した画家達の総称です。

この絵が所蔵されているルーヴル美術館のサイトには、1594年頃に制作された作品であると記されています。


2) 王の浴室


王であるアンリ4世はフォンテーヌブロー宮殿の浴室にこの絵を飾って、絵画の中に描かれた愛妾の裸体を日々見つめていたと言われています。

ガブリエル・デストレが亡くなったのは1599年のことですので、この絵画は彼女が生存中に王の浴室に飾られていたことになります。

アンリ4世は何もこの作品を浴室で眺めなくても、カブリエルの素肌にいつでも触れることが出来たはずなんですけどね。

入浴中といったガブリエルがいない状況においても常に愛妾の存在を感じていたいという、そういう情愛の深い王だったのかも知れません。

第3章で述べますが、実際に二人の間には真実の愛があったようです。


3. 愛妾の裸体


1) 素朴な疑問その1


さて、私はこの絵を見て素朴な疑問を二つ感じました。

一つ目の疑問は、この絵を描くにあたりガブリエル・デストレの裸体を一体誰が見たのかということです。


#1 有名人の裸体


妾とはいえガブリエル(1571-1599)は、王であるアンリ4世(1553-1610)から寵愛を受けている女性です。

たくさんいる愛人の中の一人ではなく、王に最も近い立場にいる側近と言っても良い存在です。

フランス人だけでなく異国の宮廷人も知っているような有名人です。
今の時代であれば、芸能記者に追い掛け回されるようなヨーロッパ中にその名が知れ渡っている女性です。

そういう立場にある女性の裸体を見ることが許される画家って、一体どんな人なんでしょうか?


#2 浴室に絵を飾る意味とは?


実際に裸体を絵画に表現している以上、誰かがガブリエルの裸体を見たはずですよね。

まあ画家が空想で描いたということもあり得ますが、第2章で述べたようにこの絵はアンリ4世が「王の浴室」において日々眺めていた作品です。

王にとってはかなりのお気に入りであっただろうと推測出来ます。

天下のフランス国王が浴室にまで飾ろうとしたぐらい、完成度の高い作品に仕上がっていたと解釈出来るでしょう。

ということは絵画に描かれたガブリエルの白い肌、柔らかな肩、そして整った乳房はアンリ4世が知り尽くしたものとほぼ同じであったはずなんです。

アンリ4世自身がこの絵を描いたのであれば、全てを知る者として容易に愛妾の裸体を表現出来ると思います。

しかし実際に描いた人物は王ではありません。
絵画史の通説としては、この絵画の作者はアンリ4世ではないということになっています。


#3 耳目に触れる裸体


通説に従うとするならば、画家(たち)が芸術の題材という名の下に、愛妾の裸体をじっくりと見つめることを王自らが許可したということになりますよね。

そんな最高権力者が果たしているでしょうか?
たとえその画家が女性であったとしてもです。

絵画が完成した暁にはその裸体が周知に晒されるわけです。
たとえ肖像画の中の裸体であったとしてもです。

さらに王の浴室には王以外の人間がたくさん出入りするはずです。

そんな多人数が出たり入ったりするような空間に、「正妻」にしようかと考えている女性の乳房を題材とした絵画を喜んで飾る男がいるでしょうか?

乳房はともかく乳首は許容範囲を超えていますでしょ?


#4 外交を担う愛妾


ガブリエル・デストレ(1571-1599)は、機知に富んだ女性であり政治的な手腕にも長けていました。

彼女の才能は王であるアンリ4世(在位1589-1610)にも認められて、遠征にも同行していたほどです。

美貌の妾というだけでなく政治にも介入するぐらいの頭脳明晰な20歳代の女性・・・、それがガブリエル・デストレだったわけです。

王は真剣に正妻(あの王妃マルゴです!)との離婚を考え、愛妾(あいしょう)との正式な結婚を望みました。

つまりアンリ4世は近い将来の「王妃」としてガブリエルを丁重に扱い、心から愛していたということです。

当然、王の周囲にいる者たちもそのような目で才知縦横のガブリエルを見ていたはずです。


#5 サン=ドニ大聖堂


アンリ4世がガブリエルを単なる愛妾ではなく、それ以上の存在として捉えていたことを周囲に知らしめた出来事があります。

それは彼女の葬儀です。

アンリ4世はガブリエルの葬儀を、何とサン=ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)で執り行ったのです。

サン=ドニ大聖堂といえば、歴代のフランス君主が埋葬されているという由緒正しき教会です。

ここでガブリエルのためのミサが行われたということは、彼女は王家の人間と同等に扱われたということになるわけです。

実際にはガブリエルは王妃ではなく妾の身分で死にました。
この待遇は異例中の異例と言えるでしょう。

また、それを実現したアンリ4世が強大な権力を保持していたことの表れと見ることも出来ますよね。


#6 作者不詳の理由


そういった「身分の高い」女性に対して、たとえ絵画のためとは言え、上半身を露(あらわ)にした状態で着座することを命令する最高権力者がいるでしょうか?

この作品を仕上げた画家は、愛妾であるガブリエルよりも社会的地位は低いと看做(みな)されていたはずなんですよ。

そんな「格下」の相手に乳首を晒す女性がいるでしょうか?

また、そんな「高貴な」女性の乳房を目の当たりにした画家の名前が、なぜ後世に残っていないのでしょうか?

男女を問わず衣装の下に隠された肉体が実際にはどうなっているのかを見たいという欲求は、いつの時代にも存在するのだと思います。

写真やビデオという器具がなかった当時は、そういった好奇心を満たすためには芸術作品を見る以外に方法がありませんでした。

そのような芸術作品を王の命令によって完成させるという「大役」を仰せつかった一線級の画家が、間違いなくいたはずなんです。

ところが、その名前はこの世から抹消されてしまいました。
なぜなのでしょうか?


3. 愛妾の裸体


2) 近代における裸婦


19世紀後半以降においてピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)などの画家たちが、芸術表現の一環として裸婦を数多く描いています。

モデルになっているのは市井(しせい)の女性たちであり、最高権力者に近い立場にあるような女性たちではありません。

一例として、フィラデルフィア美術館(The Philadelphia Museum of Art)が所蔵しているルノワールの作品『大水浴』を御覧下さい。

2011年1月3日フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』2 227

『大水浴』という不思議な邦訳は、英語の題名The Large Bathersから来ているのかも知れません。

『浴女たち』という邦訳もあるようです。

確かにルノアールが活躍した頃のフランスには、「王」という名の権力者はもう存在していませんでした。

しかし、王がいなくなったとしても芸術を愛好する政治的権力者はいたはずです。

そういった権力者に関係する女性が絵画のモデルとなってその裸体を晒したという話は、おそらく伝えられてはいないと思います。

その意味では、ガブリエルが乳首を晒しているという事実は特異なことであると評価出来るでしょう。


4. 妹の裸体


1) 素朴な疑問その2


ガブリエル・デストレ(1571-1599)の左側に描かれている女性は、彼女の妹であるとされています。

姉の政治力のおかげかどうかはわかりませんが、おそらくこの妹もアンリ4世に近い立場にあった女性であり、フォンテーヌブロー宮殿に出入りしていたのでしょうね。

そして、姉同様その美しい裸体を画家の前に晒して、この絵画を構成する一つの要素になっているわけです。


#1 美貌の妹


この妹ってこの絵画の中に本当に必要なんでしょうか?
これが私の感じている2つ目の疑問点です。

この絵画はガブリエルの美しさを主題として描かれているはずです。
しかし、作品を見る人は必ずしもガブリエルだけに視線を向けるわけではないと思います。

向かって左側に描かれている妹は、美しさという点において主役であるガブリエルに全く引けを取りません。

むしろ、肉感的な描写という観点では妹の方が姉よりも一回り豊かに描かれています。
官能的な美しさを備えた左側の女性に目を奪われる鑑賞者も多いことと推察します。


#2 美しい肉体とは何か?


ガブリエルが生きた16世紀末の社会通念がどうだったのかはわかりませんが、現代においては痩身というものが女性の美しさの基準であるかのような観念が広まっていると思われます。

ところが、女性が理想とする「痩せた」肉体美と男性が希求する「官能を備えた」肉体美には隔たりがあるように思います。

第三章第二項で紹介したルノワールのThe Large Bathersを、もう一度ご覧になって下さい。

2011年1月3日フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』2 227

この作品の構図からして、ルノワールが最も描きたかったのは一番左側にいる黒髪の女性だと思います。

左端というあまり目立たないはずの場所に座りながらも、会話の主導権を握ることでこの黒髪の女性は作品の中心をなしています。

また、その肉感的な美しさはこの絵画を見る者に生の喜びを感じさせます。

さらに、この女性の持つ官能美は前景右端に描かれた「痩身」の女性と対比させることによって、一層際立っていると言えるでしょう。


#3 霞むガブリエル


話をガブリエルの絵画に戻しますが・・・、

このように、肉感的なる女性に心を奪われるのが人間の本質だとすると、左側に描かれた官能的な妹の方により多くの視線が注がれていると解釈するのが自然だと思います。

そして、構図上の「主導権」ということで言えば、指輪をつまんでいるガブリエルよりも発達した乳首という女性の象徴に触れている妹の方が人間関係の主導権を有しているように思えるのですが、いかがでしょうかね?


#4 目立たない指輪


向かって右側にいるガブリエルが左指で持っている指輪は、浴槽の縁と同じ位置に描かれていますよね。

そのため、肝心の指輪がほとんど目立たない構図になってしまっています。

ガブリエルが美しい指先でつまんでいる指輪は、彼女が近々王妃になることを周囲に示す役割を担っていると言えるはずです。

そんな権威の象徴とも言える指輪があえて目立たないように描かれているのは、アンリ4世と彼女との親密な関係を考えた時に合点がゆきません。

一方、妹の左腕は画面中央に配置され、勝ち誇ったかのように姉の乳首をつまんでいます。

この絵画を見た瞬間に先に目が行くのは、ガブリエルがつまんでいる指輪か妹がつまんでいる乳首か、どちらでしょうか?

当然乳首です。

これらのことを通じて妹の方がガブリエルよりも優位な立場にあることを示しているのではないかと読み取ることも可能だろうと思います。

この絵画を制作した画家は、一体どんな秘密を知っていたのでしょうか?


#5 乳首を触るのは誰か?


次に根源的な疑問として、なぜ妹が姉の乳首をつまむ必要があるのでしょうか?
一般論として女性の乳首に触れるのは誰なのかを考えると、それはやはり男です。

そもそもキリスト教信者にとっては、同性による秘め事は禁忌とされています。

昨今では人々の意識が変わり、同性による愛情の交換を認めるような風潮が多少なりとも存在するのかも知れません。

しかし、この絵画が描かれた16世紀後半(1594年頃)においては、姉妹による肉体の触れ合いという事実を社会通念として認めるいうことはまずあり得ないことであったろうと思われます。

にも関わらず作者はこの構図を選び、王は出来上がった作品に喜び、浴室とはいえ相当数の人間の目に触れる場所に飾っていたというのです。

何か腑に落ちない、引っ掛かりを感じますよね。


#6 「妹」とは誰なのか?


この妹は、本当は誰なのでしょうか?

ガブリエル・デストレ(1571-1599)は実在の人物ですし、彼女に妹がいたことも事実のようです。

この絵画の完成からおよそ5年後にガブリエルは謎の急死を遂げています。
権力者に近い立場にいた愛妾(あいしょう)ですから敵も多かったことでしょう。

この絵画の作者は王や愛妾に接することが出来る立場にありました。
その政権中枢に入り込めるという立場を利用して、何か重大な秘密を突き止めたのかも知れません。

そして、その「知り得たこと」をこの絵画の中に秘密裏に表現したのですが、やがてそれが露見するところとなったのかも知れませんね。

最終的には絵画の作者はガブリエルと同じ運命を辿ったのでしょうか?


2) 原題


#1 Villars公爵夫人


最後に、この絵画が原題ではどのように表記されているのかを見ておきましょう。

この絵画は日本では『ガブリエル・デストレとその妹』という作品名で知られていますが、フランス語では次のように表記されています。

Portrait présumé de Gabrielle d'Estrées et de sa sœur la duchesse de Villars

ガブリエル・デストレ(Gabrielle d'Estrées)とその妹であるVillars公爵夫人と推定されている肖像画


sa sœurはこの題名においては彼女の妹という意味です。
la duchesseは公爵夫人という意味です。


#2 César de Vendômeの父親は誰か?


ルーヴル美術館のサイトには、以下の注釈が載っています。

Le geste ostentatoire pourrait faire allusion à la maternité de Gabrielle et à la naissance, en 1594, de César de Vendôme, bâtard d'Henri IV.

これ見よがしに美しい裸体を露にしている態度から推察すると、この絵画は以下のことを暗示しているのかも知れない、王の愛妾であるGabrielleは妊娠していて、彼女が身ごもっている子供は1594年に生まれたCésar de Vendômeなのかも知れないということである、GabrielleとHenri IVは正式には結婚していないので2人の子であるCésarは、アンリ4世の私生児ということになる。


絵画の中でガブリエルがつまんでいる指輪が、乳房の付近などのもっと高い位置に描かれていたとしたら、ガブリエルが産んだCésarの父親はアンリ4世であると考えるのが自然だと思います。

けれど、アンリ4世が未来の王妃に与えたはずの指輪は、画面の「下部」に描かれ、残念ながら輝きというものは全くと言って良いほど見られませんよね。

むしろ、こんなつまみ方をしていたら「下に」落としてしまうのではないかしらと思ってしまいます。


#3 後景に描かれた「赤」


美人姉妹の後方には炎が描かれています。
しかも、ガブリエルの顔に近い方に描かれています。

赤い衣服を身につけて針仕事をしている女性は、妹の側に配置されています。
俯いて顔を見せない彼女は、後景とは言え画面のほぼ中央に位置しているわけです。

生まれてくる赤ちゃんの産着を縫っていると思われる彼女は、この「首の太い妹」が本当は誰なのかを知っているのかも知れません。

ガブリエル・デストレ(1571-1599)が亡くなってから400年以上が経ちますが、この絵画の神秘性は今だに失われてはいません。

画家は、この絵画の中に特別の思いを込めて後世に何かを伝えようとしたのでしょう。


3) ウフィッツィ美術館所蔵作品


ガブリエル・デストレと彼女の妹を描いた作品は、ウフィッツィ美術館にもあります。

2011年1月3日フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』3 447

妹の広い肩幅と右腕の豪腕ぶりは、男性の体を見ているような気がしてきますよね。


★Quelque part dans le temps


第1章においてアンリ4世(在位1589-1610)はブルボン朝初代の王であり、ルイ14世(在位1643-1715)はその孫にあたると書きました。

さらに、その先のブルボン朝の歴史を追っていくと、ルイ14世の孫にフェリペ5世(在位1700-1746)というスペイン・ブルボン朝(スペイン語表記ではボルボン朝)の初代国王がいます。

アンリ4世の血をひくフランス・ブルボン家出身のフェリペ5世が、なぜスペインの王になったのかというと・・・、

スペイン・ハプスブルク朝(スペイン語表記ではアブスブルゴ朝)の最後の王であるカルロス2世(在位1665-1700)は、世継ぎを残さずにこの世を去りました。

その後スペイン王家が断絶したこと受けて、スペイン国王の地位を継承するためにフランスからスペインへやって来たのがフェリペ5世だったというわけです。

フェリペ5世がフランスからスペインへ赴く時に、祖父であるルイ14世は「フランス人であることを忘れるな。」と言って孫を送り出したそうです。

現在のスペイン国王であるフアン・カルロス1世(1938-)は、フェリペ5世が創始したスペイン・ボルボン家の血を受け継いでいるのです。

従って、テレビなどを通じて私たちが現在見ているスペイン王室の元を辿っていくと、今回のブログで取り上げたアンリ4世へと行き着くわけです。

系図はこうなります。

初代アンリ4世(フランス)→孫・ルイ14世→孫・フェリペ5世(スペイン)→子孫・フアン・カルロス1世



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