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ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月28日(月)18時58分 | 編集 |
2011年2月28日(月) 


目次
1. レディ・ジェーン・グレイとは誰か?
2. 王位継承順位
3. ジェーン・グレイの最期
4. 原題


今回取り上げる作品は、ポール・ドラローシュ作『レディ・ジェーン・グレイの処刑』です。

2011年2月28日ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』263

1. レディ・ジェーン・グレイとは誰か?


ポール・ドラローシュ(1797-1856)が描いているのは、レディ・ジェーン・グレイ(1537-1554)が処刑される場面です。

レディ・ジェーン・グレイとはイングランドのテューダー朝第4代の女王です(在位:1553年7月10日-19日)。

在位期間は、わずかに10日間しかありません。
処刑時の年齢は16歳です。

テューダー朝とは、ヘンリー7世(在位:1485-1509)が創設したイングランドの王家です。
ヘンリー7世の後を継いだのがヘンリー8世(在位:1509-1547)です。

ヘンリー7世の次女にメアリー・テューダーという女性がいて、フランス国王ルイ12世の王妃となっています。

メアリー・テューダーは、ヘンリー8世の妹にあたります。
ジェーン・グレイはメアリー・テューダーの孫ですので、ヘンリー7世の曾孫にあたります。

系譜で示します。

ヘンリー7世→メアリー・テューダー→フランセス・ブランドン→ジェーン・グレイ

テューダー朝の王位継承は、以下のような系譜になっています。

ヘンリー7世→ヘンリー8世→エドワード6世(在位:1547-1553)→ジェーン・グレイ→メアリー1世(在位:1553-1558)→エリザベス1世(在位:1558-1603)


2. 王位継承順位


ジェーン・グレイは、エドワード6世の補佐役であったジョン・ダドリー(1502-1553)の息子と結婚します。

エドワード6世が15歳の若さで病没する直前に、ジョン・ダドリーはジェーン・グレイへの王位継承を迫り了承させました。

本来の王位継承順位は、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)、ジェーン・グレイの順番でした。

しかし事実上の政権を握っていたジョン・ダドリーは、息子の嫁であるジェーン・グレイを王位に就け即位を宣言します。

ジェーン・グレイは女王とは言え、ジョン・ダドリーの傀儡(かいらい)であることは明らかでした。

そしてジョン・ダドリーの本当の目的は、ジェーン・グレイが子供を生んだ場合にその子を王位に就け、自らは王の祖父としてイングランド宮廷を牛耳ることにあったとされています。

こうしたジョン・ダドリーのやり方に反発した抵抗勢力は、継承順位第一位のメアリーを女王として担ぎ出し即位を宣言します。

民衆は正統なる継承者のメアリーの側につき、ジョン・ダドリー及びジェーン・グレイ一派は反逆罪で逮捕されることになりました。


3. ジェーン・グレイの最期


目隠しをされたジェーン・グレイがいる場所は、このブログにも何度か登場しているロンドン塔です。

現在では世界遺産にも指定されている観光名所のロンドン塔は、かつては王侯貴族の処刑場でもあったわけですね。

前景に描かれている藁(わら)は、切り落とされたジェーン・グレイの首から飛び散る血を吸収するために敷かれています。

向かって左側にいるジェーン・グレイの侍女達は、絶望的な表情を浮かべています。
うら若き乙女が政争に巻き込まれ、こういう形で命を落とすことを不憫に思っているのでしょう。

向かって右側に立っている男が左手に持っているのは、処刑用の大斧ですね。
これを振り下ろして首を切り落とすわけです。

せめて一振りでジェーン・グレイが絶命し、出来るだけ苦しまずに死んだことを願うばかりです。


4. 原題


ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche)が制作した『レディ・ジェーン・グレイの処刑』は、英語ではThe Execution of Lady Jane Greyと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ギャラリー(The National Gallery)で見ることが出来ます。





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ウィリアム・スクロッツ『エドワード6世』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月27日(日)22時52分 | 編集 |
2011年2月27日(日)


目次
1. ジェーン・シーモアの息子
2. 原題


今回取り上げる作品は、ウィリアム・スクロッツ作『エドワード6世』です。

2011年2月27日ウィリアム・スクロッツ『エドワード6世』647

1. ジェーン・シーモアの息子


ヘンリー8世(在位:1509-1547)が亡くなった後、イングランド王位を継承したのはエドワード6世(在位:1547-1553)でした。

エドワード6世(1537-1553)の母は、ヘンリー8世の三番目の妻であるジェーン・シーモア(1509-1537)です。

ジェーン・シーモアは、1537年10月12日に男児を出産します。
この男児が、後のエドワード6世となります。

ジェーン・シーモアは出産後の体調が思わしくなく、10月24日にこの世を去りました。
従って、エドワード6世は母のことは知らずに成長したわけです。

エドワード6世は、父ヘンリー8世の死去に伴い、わずか9歳で王に即位します。

ジェーン・シーモアの兄エドワード・シーモア(1506-1552)が、少年王エドワード6世の摂政となります。

その後、エドワード・シーモアは失脚し、ロンドン塔で処刑されました。
エドワード6世の二代目の補佐役になったのが、ジョン・ダドリー(1502-1553)です。

エドワード6世は、15歳の若さで病没します。

そしてジョン・ダドリーの野望は、やがてヘンリー7世の血を受け継ぐジェーン・グレイ(1537-1554)の悲劇を招くことになります。

明日に続きます。


2. 原題


ウィリアム・スクロッツは、16世紀中葉のテューダー朝宮廷で活躍した画家です。
生没年は、不明です。

ウィリアム・スクロッツ(William Scrots)が描いた『エドワード6世』は、英語ではEdward VIと言います。

この作品は、ロイヤル・コレクションの一つとしてハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)で見ることが出来ます。





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作者不明 『キャサリン・パー』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月26日(土)22時49分 | 編集 |
2011年2月26日(土)


目次
1. 六番目の妻キャサリン・パー
2. 最も長生きした王妃は誰か
3. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『キャサリン・パー』です。

2011年2月26日作者不明 『キャサリン・パー』417

1. 六番目の妻キャサリン・パー


キャサリン・ハワードを処刑した後、ヘンリー8世(1491-1547)は6人目の王妃を我がものとします。

女性の名は、キャサリン・パー(1512-1548)と言います。

結婚したのが1543年ということですので、ヘンリー8世は52歳ですね。
このキャサリン・パーは聡明な教養人だったらしく、王の信頼も勝ち得ていたようです。

ヘンリー8世は、1547年に死にました。

そして、王の最期を看取ったキャサリン・パーはその数カ月後、ジェーン・シーモアの兄と再婚しました。

亡霊としてハンプトン・コート宮殿内をさ迷い歩く、ジェーン・シーモアの兄と結婚したんですよ。
しかも、王が死んだ数カ月後に・・・。

キャサリン・パーは翌1548年に出産した後、病気で亡くなりました。


2. 最も長生きした王妃は誰か


ヘンリー8世の6名の王妃の中で最も長く生きたのは、4番目の王妃クレーヴェ公の娘アン(1515-1557)でした。

アンは、1540年にヘンリー8世から離縁されて王妃ではなくなりました。
しかし、イングランド王族としての地位を保持し続けることは認められていたのです。

アンは40余年の生涯の中で、金銭的に困ることは無かったようです。


3. 原題


この作品は、作者が不明です。
『キャサリン・パー』は、英語ではCatherine Parrと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)で見ることが出来ます。





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ハンス・ホルバイン『キャサリン・ハワード』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月25日(金)22時46分 | 編集 |
2011年2月25日(金)


目次
1. キャサリン・ハワードの悲劇
2. ハンプトン・コート宮殿の亡霊
3. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『キャサリン・ハワード』です。

2011年2月25日ハンス・ホルバイン『キャサリン・ハワード』487

1. キャサリン・ハワードの悲劇


ヘンリー8世(1491-1547)はアンと結婚しましたが、半年で離縁しました。
その後、キャサリン・ハワード(1521頃-1542)という女性を五番目の妻に迎えます。

キャサリン・ハワードはアン・ブーリンの従妹です。
ヘンリー8世はまたしても手近なところで王妃を決めてしまったのでした。

この5人目の王妃キャサリン・ハワードも不幸な最期を迎えることになります。
不義密通の濡れ衣を着せられて、諸先輩方同様ロンドン塔に送られて処刑されました。

もう、こんなのばっかりです。
ヘンリー8世を調べて行くとこんな話ばっかりなんですよ。

この事実を踏まえてロンドン塔へ観光に行くのは、なんだか恐ろしい気もします。


2. ハンプトン・コート宮殿の亡霊


キャサリン・ハワードが逮捕されてロンドン塔へ連れて行かれる直前にいた場所がハンプトン・コート宮殿です。

ハンプトン・コート宮殿はロンドンの中心部から20キロほど離れたところにあります。

キャサリンの怨念はこのハンプトン・コート宮殿にも残っているらしく、今だに亡霊が宮殿の中に現れるそうです。

また、3人目の王妃ジェーン・シーモアが王子(後のエドワード6世)を出産した後に亡くなったのもこのハンプトン・コート宮殿の中でした。

ハンプトン・コート宮殿の中ではどうやって見分けるのか分かりませんが、ジェーン・シーモアの亡霊も出るそうです。

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の『ハムレット』などは、こういった話から着想を得て書かれたものかも知れませんよね。


3. 原題


ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)が描いた『キャサリン・ハワード』は、英語ではPortrait of Catherine Howardと言います。

この作品は、アメリカのオハイオ州北西部に位置する街トレドにあるトレド美術館(Toledo Museum of Art)で見ることが出来ます。





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ハンス・ホルバイン『トマス・クロムウェル』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月24日(木)22時43分 | 編集 |
2011年2月24日(木) 


目次
1. トマス・クロムウェルの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『トマス・クロムウェル』です。

2011年2月24日ハンス・ホルバイン『トマス・クロムウェル』409

1. トマス・クロムウェルの悲劇


4人目の王妃アンを処刑することはなかったヘンリー8世(1491-1547)ですが、この男がこのまま黙っているはずがありません。

こうなったすべての原因を、クロムウェル(1485-1540)に押し付けます。
クロムウェルは今までの先輩たち同様、ロンドン塔へ送られ処刑されました。

自分が気に入らなければ殺す・・・、
それが、ヘンリー8世なのです。

長杖で殴りつけていたイワン雷帝(1530-1584)よりも、酷(ひど)いかも知れません。

ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)は、よく無事でしたよね。
奇跡でしょうね。


2. 原題


ハンス・ホルバイン(Hans Holbein, the Younger)が描いた『トマス・クロムウェル』は、英語ではThomas Cromwellと言います。

この作品は、ニューヨークにあるフリック・コレクション(Frick Collection)で見ることが出来ます。





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ハンス・ホルバイン『クレーヴェ公女アン』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月23日(水)12時17分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年2月23日(水)


目次
1. 4人目の王妃候補
2. 美人
3. クレーヴェ公の娘アンの悲劇
4. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『クレーヴェ公女アン』です。

2011年2月23日ハンス・ホルバイン『クレーヴェ公女アン』454

1. 4人目の王妃候補


3番目の王妃ジェーン・シーモアが亡くなりましたので、ヘンリー8世は4人目の妻を探し求めます。

トマス・モア(1478-1535)亡き後、イングランド宮廷において実権を握っていたのがトマス・クロムウェル(1485-1540)です。

モアの失脚、処刑という一連の流れには王だけでなくクロムウェルも関わっていますので、宗教の問題に絡めてまんまと政敵を追い落としたという印象を持った宮廷人も多かったのではないでしょうか。

ヘンリー8世の再婚相手として、2名の候補者が選ばれました。
一人はデンマークの王女、もう一人はドイツのクレーヴェ公の娘です。

今まで身近なところで強引な手法により妻を娶ってきたヘンリー8世でしたが、4人目の王妃は見合いによって決めることにしました。

当時の見合いは現代のように写真がありませんので、肖像画によって相手の外見を知ることになるわけです。

2名の王妃候補の肖像画を描くよう王から命じられて、デンマークとドイツへ赴いたのがホルバインでした。

現代の見合い写真でも同じことが言えるのかも知れませんが、まあ、こういった類のものはありのままには描きませんよね、普通はね。

どうしても美化して描くのが人間というものです。
なぜなら、出来上がった作品は当事者だけでなく、宮廷の者たちも興味を持って見るでしょう。

そうすると、より美しく描こうとするのが画家の本分でしょうし、心情的にもそのようにした方が何かと有利ではないかという判断が働いたのだと思います。

しかし、それがまずかった・・・。


2. 美人


ホルバインがイングランドに帰国し、制作した肖像画2枚を携えてヘンリー8世に報告を行います。
そこにはクロムウェルも同席し、検討会議が開かれます。

ホルバインの肖像画を見る限り、2人とも美人です。
顔は申し分ない。

とすると、後は政治的な要素で判断するだけです。
実力者クロムウェルは、クレーヴェ公の娘アンを最終的に推挙します。

デンマーク王女はまだ20歳前、アンは20歳代半ばという年齢的な要素も考慮したのかも知れません。

いずれにせよ、王にとっては一番重要な要素は顔です。
ハッキリ言って、それ以外の要素などこの暴君にはどうでもいいのですよ。

美人で、成熟した肉体を持ち、実家も利用価値がある・・・、
こういった理由で、アンは第4代の王妃に選ばれました。


3. クレーヴェ公の娘アンの悲劇


結婚の同意が得られ、アンがドイツからはるばるイングランドにやって来ました。

どんな美人が来るかと楽しみにしていたヘンリー8世の夢は、彼女が到着した瞬間に打ち砕かれました。

違うんですよ、肖像画と実物が。
もう今更、どうにもなりません。

結局、ヘンリー8世とアンが同じベッドで眠ることはなかったそうです。
アンはイングランドに上陸してから半年後に、離縁されて宮廷から追い出されてしまいました。

さすがに、アンを処刑する口実までは暴君も見つからなかったようですね。

まあ、ほとんど顔を合わせる機会はなかったんでしょうから、アンの方にはそもそもが嫌われる可能性すらもないんですけどね。

責任を取らされたのは、最終的な推薦をしたクロムウェルです。
明日に続きます。


4. 原題


『クレーヴェ公の娘アン』は、フランス語ではAnne de Clèves、ドイツ語ではAnna von Kleveと言います。

この作品は、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)が所蔵しています。





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ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月22日(火)11時50分 | 編集 |
記事のタグ: 美術史美術館
2011年2月22日(火)


目次
1. ジェーン・シーモアの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』です。

2011年2月22日ハンス・ホルバイン『ジェーン・シーモア』545

1. ジェーン・シーモアの悲劇


ヘンリー8世(1491-1547)は、1536年5月にアン・ブーリン(1507頃-1536)を処刑しました。

処刑後すぐに、ジェーン・シーモア(1509-1537)という女性と結婚します。

ジェーン・シーモアは、元々はヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536)に仕えるために宮廷に上がりました。

キャサリン・オブ・アラゴンは、離婚によって宮廷を去りました。
その後、次の王妃となったのはアン・ブーリンでした。

ジェーン・シーモアは、新王妃アン・ブーリンの女官としてそのまま宮廷に残っていたのです。

アン・ブーリンは、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でした。
ジェーン・シーモアは、アン・ブーリンの侍女です。

ヘンリー8世という男は、同じことを繰り返しているわけですね。
懲りない男です。

ドイツの画家ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)は、ヘンリー8世と結婚した直後のジェーン・シーモアを描きました。

ジェーン・シーモアが頭につけている黒い頭巾は、ベルベット製です。

16世紀前半のイングランドでは、女性がこのような髪型をして顔を囲むような頭巾をつけるのが流行していたようです。

このジェーン・シーモアが、翌1537年にようやく待望の男子を出産します。

この男児は、後のエドワード6世(1537-1553)となります。
ヘンリー8世の死後、王位を継承した人物です。

王妃としての責任を果たしたシーモアでしたが、残念ながら出産後すぐに亡くなってしまいます。
周囲は、アン・ブーリンの呪いではないかと囁き合ったと言います。


2. 原題


ハンス・ホルバイン(Hans Holbein der Jüngere)が描いた『ジェーン・シーモア』は、ドイツ語ではJane Seymourと言います。

この作品は、ウィーンにある美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で見ることが出来ます。





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作者不明 『アン・ブーリン』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月21日(月)22時38分 | 編集 |
2011年2月21日(月) 


目次
1. アン・ブーリンの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『アン・ブーリン』です。

2011年2月21日作者不明 『アン・ブーリン』432

1. アン・ブーリンの悲劇


アン・ブーリン(1507頃-1536)は、元々は初代王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でした。

王妃付きの侍女としてヘンリー8世の周囲で生活する内に、いつしか王はブーリンのことを結婚対象として見るようになっていきました。

ヘンリー8世がカトリックとの決別という代償を払ってまで手に入れた王妃ブーリンでしたが、残念ながら彼女は周囲の期待を裏切り、王子を生むことは出来ませんでした。

彼女が産んだ王女は、後のエリザベス1世(1533-1603)になります。

暴君のヘンリー8世が、世継ぎを産めない女性を咎(とが)めないはずがありません。

結局、ブーリンには不義密通の疑いがあるという濡れ衣を着せて、ロンドン塔へ幽閉してしまいます。

その後、トマス・モア同様、塔内で処刑されました。

現在世界遺産として登録されているロンドン塔は、かつては監獄であり処刑場でもあったわけです。

真偽の程は定かではありませんが、今だにアン・ブーリンの亡霊がロンドン塔に現れるという噂です。


2. 原題


この作品の作者は、不明とされています。
『アン・ブーリン』は、英語ではAnne Boleynと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery, London)で見ることが出来ます。





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ハンス・ホルバイン『トマス・モア』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月20日(日)16時54分 | 編集 |
2011年2月20日(日) 


目次
1. トマス・モアの悲劇
2. 原題


今回取り上げる作品は、ハンス・ホルバイン作『トマス・モア』です。

2011年2月20日ハンス・ホルバイン『トマス・モア』435

1. トマス・モアの悲劇


『ユートピア』という書物を著したことで有名なトマス・モア(1478-1535)は、ヘンリー8世(1491-1547)の下で大法官という役職に就くほどの優秀な官僚でした。

ヘンリー8世がローマ・カトリックから離れイングランド国教会の長となるという愚挙を遂行しようとする際に、勇気を持って反対の意思を表明したのがこのトマス・モア(Thomas More)だったわけです。

ヘンリー8世に反旗を翻したモアは、ロンドン塔に幽閉されてしまいます。
その後、塔内で処刑されました。

この辺りからヘンリー8世の暴君ぶりには、誰も逆らえなくなっていくわけです。

そして、ヘンリー8世は初代王妃キャサリンと離婚した後、2代目の王妃としてアン・ブーリンを迎えることになります。

明日に続きます。


2. 原題


ドイツの画家ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)が描いた『トマス・モア』は、英語ではSir Thomas Moreと言います。

この作品は、ニューヨークにあるフリック・コレクション(The Frick Collection)で見ることが出来ます。





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作者不明 『キャサリン・オブ・アラゴン』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月19日(土)13時24分 | 編集 |
2011年2月19日(土) 


目次
1. アラゴンの王女キャサリン
2. ヘンリー8世との結婚
3. 王妃の地位剥奪
4. 原題


今回取り上げる作品は、作者不明『キャサリン・オブ・アラゴン』です。

2011年2月19日作者不明 『キャサリン・オブ・アラゴン』441

1. アラゴンの王女キャサリン


キャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536)は、アラゴン王フェルナンド2世(1452-1516)とカスティーリャ女王イサベル1世(1451-1504)との間に生まれた娘です。

キャサリンは1501年にヘンリー7世の長男アーサー・テューダー(1486-1502)に嫁ぎました。
アーサー・テューダーはヘンリー8世の兄にあたります。

アーサー・テューダーは病弱な王太子でした。
15歳の若さで高熱のために亡くなってしまいます。


2. ヘンリー8世との結婚


キャサリンは、アーサー・テューダーとの間には肉体関係はなかったと宣誓しました。

キャサリンによるこの申し出が決め手となり、アーサー・テューダーの弟であるヘンリー8世との婚姻が成立しました。

1509年のことです。

ヘンリー8世とキャサリンは当初は仲睦まじい夫婦でした。
しかし、キャサリンは度重なる死産や流産を経験することになります。

キャサリンは1516年にやっと女児メアリーを出産します。
しかしヘンリー8世は世継ぎを産まないキャサリンを次第に遠ざけるようになりました。

そして、ヘンリー8世は王妃キャサリンと離婚する意志を固めるのです。


3. 王妃の地位剥奪


この王妃キャサリンとの離婚を正式にローマ教皇に認めてもらうために、ヘンリー8世は様々な方策を練ります。

ところが、結局カトリックの教義という厚い壁に阻まれて思い通りにすることは叶いませんでした。

カトリックは教義によって離婚を認めてはいません。

結婚とは神に対して誓うものであり、個人の都合で婚姻を繰り返すことは宗教上許されていないわけです。

そこでヘンリー8世は、離婚出来ないのであればカトリック教会から離れればいいという結論に至りました。

1533年、キャサリンはヘンリー8世から結婚の無効を言い渡されました。
そして、イングランド王妃の座から追われてしまったのです。

この後、ヘンリー8世の二人目の妻となるのはキャサリンの侍女アン・ブーリンです。
明日に続きます。


4. 原題


この作品の作者は不明です。
『キャサリン・オブ・アラゴン』は、英語ではCatherine of Aragonと言います。

この作品は、ロンドンのナショナル・ポートレイト・ギャラリー(National Portrait Gallery, London)で見ることが出来ます。





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ハンス・ホルバイン『イングランドのヘンリー8世の肖像』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月18日(金)13時45分 | 編集 |
2011年2月18日(金) 

目次
1. 同名の父も画家
2. 暴君
3. カトリックとの決別
4. 原題


今日からイングランド王家に関する絵画シリーズが始まります。
今回取り上げるのはハンス・ホルバイン作『イングランドのヘンリー8世の肖像』です。

2011年2月18日ハンス・ホルバイン『イングランドのヘンリー8世の肖像』471

1. 同名の父も画家


ハンス・ホルバイン(1497頃-1543)はドイツ生まれの画家で、後にイングランドに渡りヘンリー8世(1491-1547)の宮廷画家として多くの肖像画を残しました。

父親も同名の画家ですので、区別するためにドイツ語ではHans Holbein der Jüngereと表記されます。

der Jüngereは父親との対比で息子の方という意味です。


2. 暴君


ホルバインはヘンリー8世の肖像画を数点描き残しています。

この作品はホルバイン(1497頃-1543)が1537年頃に制作した絵画です。
ヘンリー8世は40歳代の半ばということになりますね。

面構えからしても傲慢で精力漲(みなぎ)る男性であったことが窺えます。

ホルバインは晩年にヘンリー8世の宮廷画家として正式に召抱えられることになったのですが、歴史を知っている立場からするとよくこんな暴君の傍で創作活動に集中出来たものだと思います。


3. カトリックとの決別


この絵画が完成する数年前の1534年にヘンリー8世はローマ・カトリック教会から離脱しイングランド国教会を設立します。

現在カンタベリー大聖堂を総本山とするイギリス国教会の歴史はヘンリー8世の時代まで遡ることが出来るわけです。

それにしてもヘンリー8世はなぜカトリック教会と袂(たもと)を分かつような暴挙に出たのでしょうか?

ルターによる宗教改革は1517年に始まっていますのでローマ・カトリックの権威が揺らぎ始めていた時期ではあります。

しかし、ヘンリー8世自身はカトリックの教義を信奉しており、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」という称号を授かるほどの熱心さでカトリックを擁護していた王でした。

決して新興勢力であるプロテスタントの主張に魅力を感じて改宗しようとしたわけではありません。

では、何が原因だったのかと言うと・・・、

妻と離婚したかったから、

それが主な理由です。

まあ、政治家ですからそれ以外の様々な思惑も存在したのかも知れませんが、最大の理由は妻との離婚問題です。

妻の名はキャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536)と言います。
明日に続きます。


4. 原題


ハンス・ホルバイン(Hans Holbein der Jüngere)が描いた『イングランドのヘンリー8世の肖像』はスペイン語ではRetrato de Enrique VIII de Inglaterraと言います。

Retratoが肖像画、Enriqueはヘンリーのことです。

この作品はマドリッドにあるティッセン=ボルネミッサ美術館(Museo Thyssen-Bornemisza)で見ることが出来ます。


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ピエール=ポール・プリュードン『皇妃ジョゼフィーヌ』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月17日(木)16時51分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年2月17日(木) 


目次
1. ナポレオン1世の妻
2. ジョゼフィーヌの娘オルタンス
3. 原題


今回取り上げる作品は、ピエール=ポール・プリュードン作『皇妃ジョゼフィーヌ』です。

2011年2月17日ピエール=ポール・プリュードン『皇妃ジョゼフィーヌ』455

1. ナポレオン1世の妻


フランスの画家ピエール=ポール・プリュードン(1758-1823)が描いているのは、ナポレオン1世の妻ジョゼフィーヌの肖像です。

ナポレオン(1769-1821)とジョゼフィーヌ(1763-1814)が結婚したのは、1796年でした。
ジョゼフィーヌは、再婚です。

前夫のアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵との間に、二人の子どもがいました。
息子ウジェーヌと娘オルタンスです。

ジョゼフィーヌと結婚したナポレオンは運気が向上し、ついに皇帝の地位にまで上り詰めます。
ナポレオン1世の戴冠式は、1804年12月にパリのノートルダム大聖堂で行われています。

プリュードンは、この作品を1805年に制作しました。
42歳の皇妃ジョゼフィーヌは、全てを手に入れた得意の絶頂にあった時期ですね。

ジョゼフィーヌは、軍人ナポレオンのことを武骨者ととらえて小馬鹿にしていました。
華美な生活を好むジョゼフィーヌは、ナポレオンが戦地にいる間に次々と愛人を作ります。

夫が戦地から送ってくる愛の手紙よりも、熟れた肉体を愛撫してくれる愛人との時間の方が大切だったのです。

そして権力者の妻のご多分にもれず、国家財政が傾くほどの浪費をしました。
その後、1809年にナポレオンは嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁します。


2. ジョゼフィーヌの娘オルタンス


ジョゼフィーヌの娘オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837)は、1802年にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚します。

オルタンスが生んだ三男は、後にナポレオン3世(1808-1873)となります。


3. 原題


ピエール=ポール・プリュードン(Pierre-Paul Prud'hon)が描いた『皇妃ジョゼフィーヌ』は、フランス語ではL'Impératrice Joséphineと言います。

L'Impératriceが、皇后、という意味です。
この作品は、ルーヴル美術館で見ることが出来ます。





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ジャック=ルイ・ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月16日(水)14時04分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2011年2月16日(水)


目次
1. 皇帝ナポレオン1世
2. 教皇ピウス7世
3. 皇太后マリア
4. 原題


今回取り上げるのは、ジャック=ルイ・ダヴィッド作『ナポレオンの戴冠式』です。

2011年2月16日ジャック=ルイ・ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』211

1. 皇帝ナポレオン1世


この作品はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)が、1804年12月に挙行した戴冠式の様子を描いたものです。

この戴冠式の主役は、もちろんナポレオン1世(在位:1804-1814)です。

彼が皇帝になったことを内外に示すためにこういった式典が催されたのであり、本来であれば彼は然るべき人物から戴冠してもらう立場の人間であるはずなんです。

皇帝若しくは皇后の頭に冠を戴(いただ)かせるのは、伝統的にローマ教皇の役割です。

いかに権力者であるとは言え、皇帝自らがローマ教皇の代理を行うことなど許されるはずがありません。

ところが、画面中央に描かれているナポレオン1世は、妻であるジョゼフィーヌ(1763-1814)に自ら戴冠しようとしています。

もちろん、彼女が皇后になったことの証としての戴冠です。

これはどう考えてもおかしいですよね。
ローマ教皇はこの戴冠式には出席していなかったのでしょうか?

それとも、作者であるジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)が事実を曲げてこの絵画を描いたのでしょうか?


2. 教皇ピウス7世


1) ノートルダムの屈辱


ナポレオンの戴冠式はパリのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)で行われました。

カトリックの最高権威であるローマ教皇ピウス7世(1742-1823)も、ナポレオン1世から招かれて列席しています。

作品で言うと、ナポレオンの真後ろに座って右手をやや上げている男性がピウス7世(Pio VII)です。

ダヴィッド(1748-1825)がこの作品の中に描いている場面というのは、ナポレオン1世自身の戴冠式が終わった後の様子です。

ナポレオンの頭には既に冠が載せられていますよね。
この冠は誰が載せたのかと言うとナポレオン自身です。

ヨーロッパ君主が戴冠式を行う場合、ナポレオン以前はたとえ儀礼的なものであったとしてもローマ教皇から戴冠してもらうのがしきたりとなっていました。

この慣例をまるっきり無視して自分で戴冠してしまったのが、皇帝ナポレオン1世だったわけです。

しかも、そこまで教皇を蔑(ないがし)ろにするつもりなのであれば、初めからこの戴冠式に呼ばなければいいわけですよ。

ところが、ナポレオンはちゃんと教皇ピウス7世にも列席を依頼しています。

ナポレオンはたくさんの参列者が見守る中、教皇の権威を完膚なきまでに貶(おとし)めることに成功します。

政治的支配者である皇帝の権力が、宗教的指導者である教皇の権威を上回るものであることを示したかったわけです。

挙句の果てには妻の戴冠まで自らの手でやってのけてしまうとは・・・。
呆れ果てた愚行とはこのことでしょうね。


2) ねじ曲げられた事実


この世紀の瞬間を記録に残すようナポレオンから命じられたダヴィッドは、準備だけで1年を費やしたと言われています。

会場となったノートルダム大聖堂の模型を作り光の差し方を調査するなど、下準備に余念がなかったと言います。

ということは、この戴冠式挙行は1年以上も前から決まっていたことであり、ナポレオンの権力は皇帝になる前から絶大だったということになりますね。

権力者に擦り寄る画家として有名なダビッドは、ナポレオンにとって不都合なことは一切描きません。

着座している教皇ピウス7世は右手をやや上げていると前述しましたが、これは史実に反します。
教皇は実際には両手を膝の上に置いたままだったのです。

しかし教皇が右手を上げている姿を描くことで、ナポレオンが教皇から祝福を受けているかのような構図に仕上がっているわけです。

写真やビデオのなかった当時、絵画は政治家の印象を良くするための有効な手段でした。

特にナポレオンは容姿に恵まれていなかったということもあり、絵画を効果的に利用するという広報戦略には人一倍執心したようです。

また、ダヴィッドのような画才があり権力欲もあり忠実な僕(しもべ)となりうる芸術家がナポレオンの傍に存在したからこそ、このような絵画が出来上がったわけです。


3. 皇太后マリア


1) 欠席者を描くダヴィッド


ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の母親はマリア・レティツィア・ボナパルト(Maria Letizia Bonaparte)と言います。

母マリア(1750-1836)は息子ナポレオンが皇帝になることを望んでいなかったと言われています。

事実、このパリのノートルダム大聖堂で行われた戴冠式にも出席していません。

息子が別人のように出世欲に取り憑かれ、政治的権力を手中にして有頂天になっている姿をはしたない振る舞いであると感じていたのかも知れません。

また、妻のジョゼフィーヌとは不仲だったことも欠席の理由の1つだったと言われています。
ところが、作者ダヴィッド(1748-1825)はこの絵画の中にマリアを描いているのです。

ナポレオンに向かって跪(ひざまず)いているジョゼフィーヌの背中から真っ直ぐ上に視線を向けると、大きな椅子に腰掛けた光の当たっている女性が目に入ると思います。

これがマリアです。

実際には出席を拒んだ母が、あろうことか息子の晴れ姿を祝福しているかのような様子で記録に残っています。

ナポレオンがダヴィッドに命じて列席していない母を描かせたという話になっています。


2) 皇帝権神授説


父の象徴であるローマ教皇に祝福され、実母にも祝福される新皇帝ナポレオン1世・・・、

しかも母の名はマリア・・・。

神と聖母によって祝福されたナポレオンは、フランス皇帝になることを運命づけられていたということを喧伝することがこの絵画を作成させた目的だったわけです。

この作品は余程のことが無い限り、後世に残るとナポレオンは考えました。
事実、200年を経た今その通りになっています。

戴冠式の様子はナポレオンにとって都合の良い形で語り継がれる必要があったわけです。
事実を曲げてでもナポレオンは神から祝福された存在でなければならないのです。

別の角度から彼の愚行に光を当てると、そんなことをしなければ人心を掌握出来なかったという彼の人望の無さが見え隠れするとも言えるでしょう。

横暴な振る舞いを繰り返す息子に母マリアは苦言を呈していたはずです。

権力の絶頂にあった息子は、自分の戴冠式に来てくれなかった母親の真意をこの時点では理解出来ていなかったのでしょうね。

この作品から読み取れる被害者は、教皇ピウス7世(1742-1823)と母マリアですね。

暴君の恐ろしさというものは歴史を学んでいると再三出くわすことなのですが、このナポレオン1世もご多分に漏れず聞き分けのない幼児性を備えた「皇帝」だったのだと思われます。

そして、自らの社会的地位の安泰を図るためにその暴君に近づいて、皇帝礼賛の絵画を何枚も残した御用画家がジャック=ルイ・ダヴィッドという男だったわけです。


4. 原題


『ナポレオンの戴冠式』は、フランス語ではLe Sacre ou le Couronnement又はLe Sacre de Napoléonと言います。

le sacreは辞書には国王や司教の聖別式という語義が載っていますが、私には知識不足で何のことかよくわかりません。

le couronnementは戴冠式という意味です。

この縦621cm×横979cmという巨大な作品はルーヴル美術館の所蔵となっています。





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ポール・ボードリー『シャルロット・コルデー』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月15日(火)16時47分 | 編集 |
2011年2月15日(火)


目次
1. 美貌の暗殺者
2. 原題


今回取り上げる作品は、ポール・ボードリー作『シャルロット・コルデー』です。

2011年2月15日ポール・ボードリー『シャルロット・コルデー』1 452

1. 美貌の暗殺者


ポール・ボードリー(1828-1886)が描く暗殺場面はジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)が描いた下掲の『マラーの死』とは異なり、マラーを神格化はしていません。

2011年2月15日ポール・ボードリー『シャルロット・コルデー』2 432


1人の政治家が暗殺されたという現場を、むしろ暗殺者であるシャルロット・コルデー(1768-1793)の立場から描いていると言えるでしょう。

マラーの右胸にはナイフが刺さり、死にゆく表情はどちらかというと醜く描かれています。
一方、毅然とした表情で立ち尽くすシャルロットは容姿端麗な良家の娘として描かれています。

実際にその美貌はパリで評判になっていて、ポール・ボードリー(Paul Baudry)の独断的な解釈というわけではなかったようです。

彼女は25歳という若さでこの犯行に及び、数日後に断頭台の露と消えました。
美しき救国の女性が信念を持って行った犯行であるという構図になっていますよね。


2. 原題


『シャルロット・コルデー』はフランス語ではCharlotte Cordayと言います。
あるいは、L'Assassinat de Maratと呼ばれる場合もあります。

l'assassinatは暗殺とか殺人と言う意味です。

この作品はフランス西部に位置するナント美術館(Le musée des Beaux-arts de Nantes)の所蔵となっています。





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ジャック=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』
記事URL  カテゴリ | ヨーロッパ王家絵画 | 2011年02月14日(月)16時28分 | 編集 |
2011年2月14日(月)


目次
1. 急進派マラー
2. ジャコバン派議員ダヴィッド
3. 原題


今回取り上げる作品は、ジャック=ルイ・ダヴィッド作『マラーの死』です。

2011年2月14日ジャック=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』432


1. 急進派マラー


1793年7月、革命後のフランスにおいて恐怖政治を行っていた政治家ジャン=ポール・マラー(1743-1793)が暗殺されました。

ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat)は、庶民が支持するジャコバン派の指導者の1人でした。

ジャコバン派は、富裕層を支持基盤とするジロンド派と議会で激しく対立し、最終的に独裁体制を築くことになります。

その過程で多くのジロンド党員がマラーによって粛清され、ギロチンにかけられていきました。

このマラーが行った政治のあり方に憎悪を抱いた1人のジロンド派の女性がいました。
シャルロット・コルデー(Charlotte Corday)と言います。

シャルロット(1768-1793)はフランス国家のため、急進的なマラーを殺害する決心をし、マラー宅を訪れました。


2. ジャコバン派議員ダヴィッド


マラーは持病の皮膚病に悩まされており、シャルロットが訪問した時は治療のための入浴をしている最中でした。

庶民の味方を標榜するマラーは、貧しい身分であると言うシャルロットを快く迎え入れ、風呂に入りながら彼女の訴えを聞いていたわけです。

実際には貴族の出身でジロンド派を支持していたシャルロットは、隠し持っていたナイフでマラーを刺殺したのです。

この殺害現場を作品の中に描いたのが、ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)です。

ダヴィッド(1748-1825)は画家であると同時に、この時点ではジャコバン派の議員でもありました。

従って、ダヴィッドにとっては同志を殺害されたということになるわけです。

マラーを英雄視して、その死を神聖なものと人々が受け取るような作品を描いたのです。

右手をだらりと下げた構図は、ミケランジェロが制作した彫刻『ピエタ』をモデルとしています。
サン・ピエトロ大聖堂に展示されているこの作品を知らないキリスト教徒はいないはずです。

この死せるキリストに似せる形でマラーの死を美化し、民衆のために命を落とした殉教者という印象を深く植え付けようとしたわけです。

マラーの暗殺後、ダヴィッドはこの作品をすぐに完成させました。

ジャコバン派にとっては英雄であったマラーを讃えるために、この作品はフランス議会の議場にまで掲げられることになったのでした。


3. 原題


『マラーの死』は、フランス語ではLa Mort de Maratと言います。
la mortが、死、という意味です。

この作品は、ブリュッセルにあるベルギー王立美術館(Musées royaux des beaux-arts de Belgique)の所蔵となっています。





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