映画とドラマと語学、そして株式投資へ
| ホーム loro2012 |
| 投稿 |
スポンサーサイト
記事URL  カテゴリ | スポンサー広告 | --年--月--日(--)--時--分 | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





フランシスコ・デ・スルバラン『ポルトガルの聖イザベル』
記事URL  カテゴリ | キリスト教の聖人絵画 | 2014年08月09日(土)08時42分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2014年8月9日(土) 


目次
1. ポルトガル王妃
2. 貧者や病人への奉仕
3. 原題


今回取り上げる作品はフランシスコ・デ・スルバラン作『ポルトガルの聖イザベル』です。

フランシスコ・デ・スルバラン『ポルトガルの聖イザベル』634


1. ポルトガル王妃


スペインの画家フランシスコ・デ・スルバラン(1598-1664)が描いているのはポルトガル王妃イザベルです。
イザベル(1271-1336)はアラゴン王ペドロ3世の娘です。

アラゴンは中世後期にイベリア半島に存在した王国です。
アラゴン王国の領土は現在のスペイン北東部にあるアラゴン州に相当する地域でした。

イザベルはアラゴンの出身ということでスペイン語ではイサベル・デ・アラゴン・イ・シシリアと呼ばれています。

イザベルは1282年にポルトガル王ディニス1世(在位:1279-1325)と結婚しました。


2. 貧者や病人への奉仕


イザベルは幼い頃から敬虔なカトリック教徒でした。
アラゴン王女として貧しい人々や病人に対する奉仕活動に積極的に従事していました。

ポルトガル王妃となった後もイザベルの信仰に対する態度は変わりません。
ポルトガル領内の貧者への施しはイザベルが生きている間続きました。

一方、ディニス1世は妻イザベルとは対照的に不信心な王でした。
イザベルが社会奉仕活動に勤しんでいる様子を快く思っていなかったのです。

ある日、宮廷を出て行くイザベルを王ディニス1世が見咎めました。
頻繁に出かける妻イザベルが浮気をしているのではないかと疑ったのです。

この時イザベルは貧者に施すためのパンを籠に入れて前掛けで隠して持っていました。
もしパンの存在が夫に知れたら今後こういった奉仕活動は一切禁止されるかも知れません。

ディニス1世はイザベルに対して籠の中身は何かと尋ねました。
イザベルは咄嗟に籠の中には薔薇の花が入っていると答えました。

ディニス1世は念のため籠の中身を改めようとします。
王は王妃が食料を宮廷から持ち出して貧者に施していることを薄々気づいていたのです。

王の手が前掛けに伸び、籠の中身が露(あらわ)になったその瞬間、パンは薔薇の花に変わりました。
神の奇跡が起きたのです。

作品の中でイザベルが右手に持っているのは薔薇の花です。

こうしてイザベルは危機を切り抜けて奉仕活動を継続していくことが出来たのです。
イザベルは17世紀に入って聖人に列せられることになりました。


3. 原題


フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)が描いた『ポルトガルの聖イザベル』はスペイン語ではSanta Isabel de Portugalと言います。

この作品はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)で見ることが出来ます。

キリスト教の聖人絵画シリーズは今回でおしまいです。

スポンサーサイト



関連記事

ジョット・ディ・ボンドーネ『アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受』
記事URL  カテゴリ | キリスト教の聖人絵画 | 2014年08月08日(金)07時25分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2014年8月8日(金) 


目次
1. アッシジの修道士
2. 原題


今回取り上げる作品はジョット・ディ・ボンドーネ作『アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受』です。

ジョット・ディ・ボンドーネ『アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受』622


1. アッシジの修道士


アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)は中世イタリアにおける著名な聖人の一人です。
45年に満たない人生の中でフランシスコ会というカトリック教会の修道会を創設しました。

イタリアの画家ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)が描いているのはフランチェスコがイエスから聖痕(せいこん)を授けられている場面です。

イエスは磔刑になった時に両手、両足、右脇腹の五ヶ所に傷が出来ました。
これらの傷が後世の信者の体の同じ部位に現れることがあるのです。

この傷のことをカトリック教会では聖痕と呼んでいます。
聖痕が現れるということは神の奇跡の一環であり、その信者の信仰の深さを物語るものと解釈されています。

聖フランチェスコの体にはこの聖痕が現れたと言われています。
イエスと同じように両手、両足、右脇腹に傷が出現しました。

向かって右で翼をつけて空中にいるのはイエスです。

翼が全部で六つあるのは熾天使(してんし)の姿であることを表しています。
熾天使とは天使の九階級の内、最上とされている天使です。

フランチェスコはイエスによって聖痕を授けられ神との絆が確固たるものになったのです。

アメリカの都市サンフランシスコはアッシジの聖フランチェスコの名前が由来となっています。


2. 原題


ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)が描いた『アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受』はフランス語ではSaint François d'Assise recevant les stigmatesと言います。

les stigmatesは複数形で聖痕を意味します。
この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。




関連記事

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ『聖ヒエロニムス』
記事URL  カテゴリ | キリスト教の聖人絵画 | 2014年08月07日(木)21時30分 | 編集 |
2014年8月7日(木) 


目次
1. 学識者
2. 原題


今回取り上げる作品はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ作『聖ヒエロニムス』です。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ『聖ヒエロニムス』243


1. 学識者


ヒエロニムス(340頃-420)は現在のアドリア海沿岸地域で生まれました。
アドリア海というのはイタリア半島とバルカン半島に挟まれた海です。

現在で言うとクロアチアの領土内で生まれたということになります。

ヒエロニムスはローマ留学などを経て、ラテン語やギリシア語そしてヘブライ語を習得します。
この3言語の知識を駆使して、後に聖書を翻訳する業務に没頭しました。

旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、ヒエロニムスはこれをラテン語に翻訳しました。
新約聖書はギリシア語で書かれていますが、ヒエロニムスはこれをラテン語に翻訳しました。

ヒエロニムス以降の神学研究に携わる人々はラテン語を習得すれば聖書に何が書いてあるのかを知ることが出来るようになったわけです。

キリスト教はこれ以後も、画家及び通訳・翻訳者たちのおかげで世界宗教へと飛躍していくことになるのです。


2. 原題


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)が制作した『聖ヒエロニムス』はイタリア語ではIl San Gerolamoと言います。

Gerolamo(ジェローラモ)はヒエロニムスのことです。

この作品はローマにあるボルゲーゼ美術館(Galleria Borghese)で見ることが出来ます。




関連記事

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『イレーネに看護を受ける聖セバスティアン』
記事URL  カテゴリ | キリスト教の聖人絵画 | 2014年08月06日(水)07時58分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2014年8月6日(水) 


目次
1. 聖イレーネ
2. セバスティアンの最期
3. 原題


今回取り上げる作品はジョルジュ・ド・ラ・トゥール作『イレーネに看護を受ける聖セバスティアン』です。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『イレーネに看護を受ける聖セバスティアン』428


1. 聖イレーネ


セバスティアンの処刑が終わった後、イレーネという女性が遺体を埋葬するためにセバスティアンの元へ近づきました。

イレーネはカストゥルスという男性の未亡人でした。
カストゥルスもイレーネもキリスト教徒でした。

イレーネは処刑により体中に矢を受けたセバスティアンが奇跡的に一命をとりとめているのを発見します。
そして瀕死の状態のセバスティアンを自宅に引き取り看護をします。

フランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)が描いているのはイレーネがセバスティアンの手当てをしている場面です。

セバスティアンはローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284-305)に反逆した立場です。
看護する場合、秘密裏に行う必要がありました。

ラ・トゥールの作品は暗くて見づらいですが、実際にはこのような人目につかない方法でイレーネはセバスティアンを助けていたのだと思われます。

前景で横たわっているのがセバスティアンです。
鳩尾(みぞおち)のあたりに矢が一本だけ刺さったままです。

セバスティアンの左手を取っている女性がイレーネです。
イレーネは右手に松明を持ちセバスティアンの顔を心配そうに覗き込んでいます。


2. セバスティアンの最期


イレーネの看護によりセバスティアンは健康を回復しました。
セバスティアンは再びディオクレティアヌスの元を訪れます。

そしてイエスの教えをディオクレティアヌスに何度も説いたのです。
セバスティアンの揺ぎ無い信仰を見たディオクレティアヌスは自ら棍棒を手にしてセバスティアンを打ちつけました。

ディオクレティアヌスはセバスティアンが息絶えるまで打ち続けたと言います。
そして遺体は人目につかない場所に捨てられました。


3. 原題


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour)が描いた『イレーネに看護を受ける聖セバスティアン』はフランス語ではSaint Sébastien soigné par Irèneと言います。

soigner ZはZの治療をするという意味です。
この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。




関連記事

ペルジーノ『聖セバスティアン』
記事URL  カテゴリ | キリスト教の聖人絵画 | 2014年08月05日(火)07時38分 | 編集 |
記事のタグ: ルーヴル美術館
2014年8月5日(火) 


目次
1. ディオクレティアヌスによる迫害
2. 原題


今回取り上げる作品はペルジーノ(Perugino)作『聖セバスティアン』です。

ペルジーノ『聖セバスティアン』518


1. ディオクレティアヌスによる迫害


セバスティアンはローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284-305)の時代に活躍した聖人です。
セバスティアンの元々の職業はローマ軍の士官でした。

セバスティアンは士官をする傍ら、秘密裏にキリスト教の信者となりました。

ディオクレティアヌスはキリスト教を迫害した皇帝です。
その配下の者がキリスト教徒になることは断じて許されません。

やがてセバスティアンの信仰は露見します。

ディオクレティアヌスは裏切り者のセバスティアンを弓矢で処刑することを決めます。
イタリアの画家ペルジーノ(1450頃-1523)が描いているのはセバスティアンが処刑されている場面です。

作品では二本の矢が刺さっているだけですが実際には多数の矢がセバスティアンの体に突き刺さったと言われています。

ところがそれらの矢はことごとく急所を外れます。
セバスティアンは奇跡的に命を落とすことなく、この後もしばらく生き延びることになるのです。


2. 原題


ペルジーノ(Le Pérugin)が描いた『聖セバスティアン』はフランス語ではSaint Sébastienと言います。

ペルジーノはペルージャ人という意味です。
本名はピエトロ・ディ・クリストフォロ・ヴァンヌッチ(Pietro di Cristoforo Vannucci)と言います。

この作品はルーヴル美術館(Musée du Louvre)で見ることが出来ます。




関連記事

シモーネ・ピニョーニ『聖ペトロニッラの死』
記事URL  カテゴリ | 新約聖書絵画 | 2014年08月04日(月)08時29分 | 編集 |
記事のタグ: エルミタージュ美術館
2014年8月4日(月) 


目次
1. ペテロの娘
2. 原題


今回取り上げる作品は、シモーネ・ピニョーニ作『聖ペトロニッラの死』です。

シモーネ・ピニョーニ『聖ペトロニッラの死』424


1. ペテロの娘


聖ペトロニッラは伝統的にペテロの娘であるとされてきました。
しかしペテロとペトロニッラの間には血縁関係はなく名前が似ているために娘と考えられただけ、という説もあります。

いずれにしてもペテロが霊力によりペトロニッラの体の震えを治したことは事実のようです。

イタリアの画家シモーネ・ピニョーニ(Simone Pignoni 1611-1698)が描いているのは死ぬ間際のペトロニッラの姿です。

古代ローマの貴族フラックスは美しいペトロニッラに目を付けて結婚を迫りました。
聖職の身であるペトロニッラには到底受け入れられる話ではありません。

ペトロニッラは断食に入り拒絶の意思表示をします。
キリスト教を信仰しない権力者に靡(なび)くことなくペトロニッラは神への祈りを続けました。

そして3日後に美しい姿のままで亡くなったのでした。

向かって左に描かれている赤いマントを着た男性は祭司ニコメデスです。
ニコメデスはペテロの弟子にあたります。

ペトロニッラは今際(いまわ)の際(きわ)にニコメデスから最後の福音を聞かされているところです。


2. 原題


シモーネ・ピニョーニ(Симоне Пиньони)が描いた『聖ペトロニッラの死』はロシア語ではСмерть св. Петрониллыと言います。

Смертьが死という意味です。
св.はСвятаяの略で聖人という意味です。

この作品はエルミタージュ美術館(Государственный Эрмитаж)で見ることが出来ます。

今回をもって新約聖書絵画シリーズは完結です。
ギリシア神話絵画、旧約聖書絵画、新約聖書絵画という西洋絵画3部作はこれでおしまいです。

最後のシリーズとしてキリスト教の聖人シリーズが次回から始まります。




関連記事

ホセ・デ・リベーラ『聖フィリポの殉教』
記事URL  カテゴリ | 新約聖書絵画 | 2014年08月03日(日)08時10分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2014年8月3日(日) 


目次
1. イエスの弟子
2. 磔刑死
3. 原題


今回取り上げる作品はホセ・デ・リベーラ作『聖フィリポの殉教』です。

ホセ・デ・リベーラ『聖フィリポの殉教』341


1. イエスの弟子


フィリポはイエスの十二使徒の一人です。
ピリポとも表記される場合もあります。

イエス亡き後、フィリポはスキタイ地方を旅しながら福音を説いていたと言われています。
スキタイ地方とは現在のカスピ海と黒海の周辺に広がっていた地域に同定されています。


2. 磔刑死


晩年のフィリポはヒエラポリスという街でイエスの教えを説いていました。
ヒエラポリスとは現在のトルコ西部にある街に同定されています。

ある日、フィリポは軍神アレスを祀った神殿において人々から礼拝されていた竜を追い出しました。
キリスト教徒の立場からすると竜を拝むのは偶像崇拝に該当するということです。

この竜が神殿に姿を表した時に強烈な悪臭を放ちました。
そして悪臭が原因で多数の人々が命を落としたのです。

ヒエラポリスの神官たちはこの責任をフィリポに求めました。
そして異教徒フィリポは死をもって償うことになったのです。

スペインの画家ホセ・デ・リベーラ(1591-1652)が描いているのはフィリポが磔刑になる場面です。
前景向かって左にいる二人の男は船の帆を張るような様子で描かれています。

画面の両端には一人の伝道師が殉教する場面を見守る一般の人々の様子が描かれています。
イエスの弟子たちはそのほとんどが十字架刑で殺されているわけですね。


3. 原題


ホセ・デ・リベーラ(José de Ribera)が描いた『聖フィリポの殉教』はスペイン語ではMartirio de San Felipeと言います。

Martirioが殉教という意味です。
この作品はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)で見ることが出来ます。




関連記事

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『聖アンデレの殉教』
記事URL  カテゴリ | 新約聖書絵画 | 2014年08月02日(土)07時28分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2014年8月2日(土) 


目次
1. ペテロの弟
2. 殉教する弟子たち
3. 原題


今回取り上げる作品はバルトロメ・エステバン・ムリーリョ作『聖アンデレの殉教』です。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『聖アンデレの殉教』250


1. ペテロの弟


聖アンデレとはイエスの12使徒の内の1人でペテロの弟です。
ガリラヤ湖畔で漁師としての仕事をしている最中に兄ペテロと共にイエスによって召命されました。

イエスの起こした奇跡として僅かなパンと魚が5,000人分に増えた話がありますが、最初にパンと魚を持った少年をイエスの元に連れて来たのはアンデレでした。

聖霊降臨後、アンデレがギリシアで布教活動を行っていた時の話です。
ギリシアのある街を治めるローマ総督の妻が重病に伏していました。

アンデレは神の奇跡によってその妻の病を癒します。
そして彼女はキリスト教へと改宗しました。

ところが総督はキリスト教など断じて認めません。
総督はアンデレが妻を惑わせて無理矢理に改宗させたと捉えました。

激怒した総督の命でアンデレは逮捕されます。
そしてX字型の十字架に架けられて処刑されました。


2. 殉教する弟子たち


磔刑による殉教というのはイエスの件が有名ですが、実は彼に付き従っていた弟子たちも後に似たような目に遭って殺されています。

ペテロは逆さ十字架の刑で殺されました。
アンデレは今日見た通りX字型の十字架に架けられて処刑されました。

ピリポは異教の司祭の恨みを買って磔刑死しました。
バルトロマイはアルメニアの地で生皮を剥がれて殺されました。

マタイはエチオピアにて刺客によって刺殺されました。


3. 原題


バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682)が制作した『聖アンデレの殉教』はスペイン語ではEl martirio de San Andrésと言います。

El martirioが殉教という意味です。
この作品はプラド美術館(Museo Nacional del Prado)に所蔵されています。




関連記事

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ『聖マタイの殉教』
記事URL  カテゴリ | 新約聖書絵画 | 2014年08月01日(金)08時09分 | 編集 |
2014年8月1日(金) 


目次
1. エチオピアでの殉死
2. 原題


今回取り上げる作品はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作『聖マタイの殉教』です。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ『聖マタイの殉教』316


1. エチオピアでの殉死


イエスの12使徒の一人マタイはエチオピアでの布教活動の最中に殺害されました。

イタリアの画家カラヴァッジョ(1571-1610)の作品においては中央下部で白いズボンを穿(は)いて横たわっているのがマタイです。

マタイの右手首を掴んで恫喝しているのは王が放った刺客です。
この後、右手に持った剣でマタイの息の根を止めるところです。

マタイの右手の先には天使が見えます。
天使が差し出しているのは棕櫚(しゅろ)の葉です。

キリスト教において棕櫚は殉教の象徴とされています。

前景に描かれた上半身裸の若者たちはマタイから洗礼を受けようとしてこの場にいたのです。
厳かで静かな宗教儀式が荒々しい刺客の登場によって破壊されてしまいました。

キリスト教徒への徹底的な弾圧はこの後300年続きます。

ローマ帝国内で信教の自由が保障されたのはコンスタンティヌス1世(在位:306-337)が313年に発布したミラノ勅令以降のことです。

イエスの十字架事件以降、キリスト教徒の受難は300年以上続いたわけです。


2. 原題


カラヴァッジョ(Caravaggio)が描いた『聖マタイの殉教』はイタリア語ではMartirio di San Matteoと言います。

Martirioが殉教という意味です。

この作品はローマにあるサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(La chiesa di San Luigi dei Francesi)のコンタレッリ礼拝堂(La cappella Contarelli)で見ることが出来ます。




関連記事

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。