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フランシスコ・デ・ゴヤ『1808年5月3日』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年10月04日(月)13時36分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2010年10月4日(月)


テレビでの放送日:2010年5月28日(金) 
講座名:テレビでスペイン語 講師:貫井一美


目次
1. 銃殺刑
2. その後のスペイン
3. 原題
4. ナポレオンのロシア遠征


今回取り上げる作品は、フランシスコ・デ・ゴヤ作『1808年5月3日』です。

2010年10月4日フランシスコ・デ・ゴヤ『1808年5月3日』256

1. 銃殺刑


1808年5月3日、ナポレオン軍に敗れた市民らは太陽が昇る前に銃殺されました。
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)が描いているのは、この時の様子です。

この作品にも正式な題名があり、『1808年5月3日 プリンシペ・ピオの丘での銃殺』と言います。

実際にこのような至近距離から、銃殺刑が行われたのでしょうね。
画面向かって左下には、血を流した人々が折り重なるようにして倒れています。

彼らは市民蜂起軍を構成していた人々で、一人また一人と順番にナポレオン軍の兵士たちに殺されていったわけです。

もちろん、銃殺刑を実行した現場の兵士たちは上層部の指示に従ってこういった行為を行ったに過ぎません。

残虐な殺人を命じたのは、ナポレオン1世(在位:1804-1814)です。

フランシスコ・デ・ゴヤは、今から200年前に起きた非道な行為を目に見える形で記録に残したのです。

1808年の時点では、ゴヤは聴力を失っています。
従って、銃声や悲鳴などは全く聞こえていなかったはずです。

ゴヤがこの作品を通して伝えようとした内容は、決して神話や空想の世界の話ではありません。
全て歴史的な事実です。

ナポレオンは、ヨーロッパ大陸を手中に収めるという野望を抱きました。
ナポレオンの欲望が、こうした惨劇を引き起こしたのです。


2. その後のスペイン


ナポレオン(1769-1821)の兄で、ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)という男がいます。

ゴヤが作品の中に描いたマドリッドの悲劇の後、ジョゼフ・ボナパルトはスペイン王となってマドリッドに入城します。

ナポレオン1世の権力によって、ボナパルト家の人間が伝統あるスペインの王位に就いたわけです。

王とは、血統を重視する存在です。
従って、本来の定義で言えばジョセフはスペイン皇帝となるべきなのです。

ナポレオン1世も、フランス王ではなく皇帝に即位しています。
ナポレオンは強大な権力を背景にして、実兄を無理矢理にスペイン王にしてしまったわけですね。

ジョゼフ・ボナパルトはスペイン王としては、ホセ1世(在位:1808年-1813年)と名乗りました。

外国人の王ホセ1世は、スペイン国民の支持を得ることは出来ませんでした。
そして、僅か5年で廃位に追い込まれました。

どんな組織でも、無理な人事を押し通すと軋(きし)みが生じます。
その軋みを解決するだけの能力は、ジョセフには備わっていませんでした。

ホセ1世の廃位は、彼自身の統治能力の欠如によるものです。
実弟であるナポレオン1世の没落とは、あまり関係がないと言って良いでしょう。


3. 原題


フランシスコ・デ・ゴヤが描いた『1808年5月3日 プリンシペ・ピオの丘での銃殺』は、スペイン語ではEl tres de mayo de 1808, o Los fusilamientos en la montaña del Príncipe Píoと言います。

el fusilamientoは、el fusil(銃)から派生した語で、銃殺、という意味です。
複数人が銃殺されていますので、複数形のlos fusilamientosになっているわけです。

la montañaは題名では、丘、と訳していますが、山、と訳す場合が多い語です。
この作品は、プラド美術館(Museo Nacional del Prado)の所蔵となっています。


4. ナポレオンのロシア遠征


最後に、ナポレオンに敵対したロシアの話を少しだけします。

ロシアは、1806年に発布されたナポレオンの大陸封鎖令を、最初の内は受け入れていました。
当時のロシア皇帝は、アレクサンドル1世(在位:1801-1825)です。

アレクサンドル1世は、実効性が見えて来ない大陸封鎖令に見切りをつけて、1810年にイギリスとの交易に踏み切りました。

アレクサンドル1世は、たとえナポレオンを敵に回してもイギリスと交易を行うことがロシアの国益に叶うという判断をしたわけですね。

ナポレオンは、自分の命令に逆らったアレクサンドル1世を力ずくで屈服させるためにモスクワ遠征を行いました。
1812年のことです。

軍事の天才ナポレオンには、勝算がありました。
ところが、ロシア側の焦土作戦などが功を奏し、フランス軍は思い通りにロシアを攻略することが出来ませんでした。

1812年12月、ナポレオン軍は厳寒のロシアから完全撤退します。
この軍事的な敗北は、軍人ナポレオンにとって大失態となりました。

ナポレオンがロシアに敗れ去ったその源を探ると、大陸封鎖令の発布に至るのです。


★Quelque part dans le temps


チャイコフスキー(1840-1893)は、1812年のナポレオン軍に対するロシア側の勝利を題材として、『序曲1812年』を作曲したとされています。


チャイコフスキー:1812年
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ドン・コサック合唱団
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