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フランシスコ・デ・ゴヤ『1808年5月2日』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年10月03日(日)13時40分 | 編集 |
記事のタグ: プラド美術館
2010年10月3日(日)


テレビでの放送日:2010年5月28日(金) 
講座名:テレビでスペイン語 講師:貫井一美


目次
1. ナポレオンの大陸封鎖令
2. スウェーデンとポルトガル
3. スペイン王家追放
4. 市民蜂起
5. 原題


「美術からひも解くスペイン vol.08」で取り上げられたフランシスコ・デ・ゴヤの連作を、今回と次回で取り上げます。

今回の作品は、『1808年5月2日』です。

2010年10月3日フランシスコ・デ・ゴヤ『1808年5月2日』259

1. ナポレオンの大陸封鎖令


ナポレオン1世(1769-1821)は、ローマ教皇すらも蔑(ないがし)ろに出来るぐらいの政治的な権力を握った時期がありました。

天下を取ったナポレオンは、やがて破滅の道へと進んで行くことになります。
その契機となったのは、実は経済政策の失敗だったのです。

ナポレオンは、1806年にヨーロッパ各国に対して大陸封鎖令を通達します。

大陸封鎖令とは、産業革命を通じて技術力や経済力を蓄えたイギリスをヨーロッパ大陸市場から締め出すことを目的としたものでした。

ナポレオンはこの大陸封鎖令を発布することにより、ヨーロッパ各国がイギリスと通商を行うことを禁じます。
そして、その代わりにフランスと通商を行うよう命じたのです。

ナポレオンは、イギリスがいずれ軍事的にも大敵となるであろうことを予見していました。
そして、イギリスの経済的な基盤に対して早い段階で揺さぶりをかける政策を思いついたわけです。

つまりナポレオンは大陸封鎖令の効果によってイギリスが経済力を失い、ヨーロッパ各国がフランスに対して経済的にも隷属する状態を創り出そうとしたわけですね。

ところが当時のフランスは軍事的には優位な立場にあったのですが、経済的にはイギリスよりも遥かに遅れた状態でした。

従ってヨーロッパ各国は経済的後進国のフランスと通商するよりも、先進国イギリスとの貿易を内心では望んだわけです。

当時のヨーロッパ各国は、軍事面で脅威を感じているために表向きはナポレオンに従っています。
しかし、実際のところは経済的果実を得るためにイギリスとの交易を強く望んでいたのです。

この大陸封鎖令は、軍事的な天才であったナポレオンが経済政策に対しては無知であることを示す結果になりました。

いつの世でも一般大衆は暴力による支配を嫌います。
そして民衆の最大の関心事は経済的果実であるということを、軍人ナポレオンは知らなかったのでしょうね。


2. スウェーデンとポルトガル


当時のヨーロッパ各国は、本音としては経済的な先進国イギリスとの交易を望んでいました。
しかしナポレオンの暴力に怯え、やむを得ず大陸封鎖令に従っているという状況でした。

そんな中で大陸封鎖令を明確に無視した国が二つありました。
それはスウェーデンとポルトガルです。

当時のスウェーデンとポルトガルは、中立国の立場をとっていました。
従って、ヨーロッパ大陸の制覇を目指すナポレオンの命令に従う義務はありません。

1806年にナポレオンが出した大陸封鎖令は、もちろんスウェーデンやポルトガルにも届いていました。

スウェーデンに関しては、ナポレオンはロシアに圧力をかけて両国を戦わせることにします。
1807年のことです。

ロシアに敗れたスウェーデンは、大陸封鎖令をしぶしぶ受け入れることになりました。

この後、1810年にロシアは大陸封鎖令を無視することになるのですが、この時点ではナポレオンの考えに同調していたわけですね。

一方のポルトガルは、摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)がナポレオンからの最後通告を拒絶しました。

そこで、ナポレオンは軍事力によってポルトガルを従わせる方策を選択します。
1807年に、フランス軍はスペイン軍と連合してポルトガルの首都リスボンを侵略しました。

スペイン政府にとっても、ナポレオンに協力する形をとりながらポルトガルを支配することは国益に叶うことだったわけです。

ナポレオンの登場以来、スペイン王室は表面的にはフランスの意向に従って来ました。
ナポレオンが率いる強大な軍事力の前に屈して来た、という表現の方が正確かも知れません。

当時の国王は、カルロス4世(在位:1788-1808)です。

カルロス4世はフランス革命勃発からナポレオンの権力掌握に至る隣国フランスの変遷を、マドリッドから眺めていたわけですね。

ただ、カルロス4世は統治能力に欠ける王でした。

そこでマドリッド宮廷の実質的な権限は、王妃マリア・ルイサ・デ・パルマ(1751-1819)と宰相マヌエル・デ・ゴドイ(1767-1851)が握っていました。

リスボン侵略の際にフランス軍とスペイン軍を連合させるよう差配をしたのは、カルロス4世ではなく宰相ゴドイです。

まあ、実際のところはゴドイが差配したというよりは、ナポレオンの命令に従っただけということなんですが。


3. スペイン王家追放


ナポレオン1世(在位:1804-1814)は、ポルトガルの占領を強化するという名目でスペインの各都市にフランス軍を進駐させました。

1808年、王妃と宰相が支配するマドリッドにもナポレオン軍が侵略して来ました。
軍事的にはスペインがフランスに抵抗出来るはずがありませんので、マドリッドは間もなく陥落します。

カルロス4世は廃位させられ、王妃らと共に亡命を余儀なくされました。
王家不在のマドリッドで、この後、惨劇が起きるのです。


4. 市民蜂起


カルロス4世の亡命後、マドリッドはフランス軍が占領していくことになります。
この異国の駐留軍に対して、マドリッド市民が蜂起しました。

1808年5月2日のことです。

この市民対ナポレオン軍の戦いの様子を描いたのが、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)です。

画面中央の白い馬は、右前脚の辺りを槍で刺されて血を流していますね。
地面には死体がいくつも横たわり、この戦闘で多くの生命が失われたことを示しています。

この作品の題名は、正式には『1808年5月2日 エジプト親衛隊との戦闘』と言います。

ナポレオン軍とは言っても、全員がフランス人だったわけではありません。
この絵画に描かれているように、エジプト人の傭兵部隊がフランス軍のために加勢していたわけです。

軍事的な訓練を受けていない市民の蜂起は、短時間で鎮圧されました。
そして戦闘で生き残ったスペイン人たちは、フランス軍に対する反逆者として処刑されることになるのです。


5. 原題


フランシスコ・デ・ゴヤが描いた『1808年5月2日 エジプト親衛隊との戦闘』は、スペイン語ではEl dos de mayo de 1808, o La lucha con los mamelucosと言います。

el dosは2日、mayoは5月です。
la luchaは戦闘、mamelucoはマムルーク(エジプトの親衛兵)という意味です。

この作品は、プラド美術館(Museo Nacional del Prado)の所蔵となっています。

明日に続きます。




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