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イリヤ・レーピン『イワン雷帝とその息子』
記事URL  カテゴリ | その他絵画 | 2010年12月11日(土)15時52分 | 編集 |
2010年12月11日(土)

テレビでの放送日:2010年3月8日(月) 
番組名:「怖い絵」で人間を読む(NHK教育) 講師:中野京子

第6回 怒りの果て レーピン『イワン雷帝とその息子』
目次
1. イワン4世
2. 流産
3. 憤怒と傲慢の果て
4. Humpty Dumpty
5. 連続毒殺
6. トレチャコフ美術館


イリヤ・レーピン作『イワン雷帝とその息子』は、テキストだとモノクロ写真が113ページ、カラー写真は巻頭に載っています。

2010年12月11日イリヤ・レーピン『イワン雷帝とその息子』1 245


こめかみから血を流して死んでいるのが息子、そして死んだ皇太子を目を見開いて抱きかかえているのがイワン雷帝です。

なぜこんなことになってしまったのでしょうか?


1. イワン4世


イワン雷帝(Иван Грозный)とは、正式にはイワン4世(1530-84)というロシアの皇帝です。
彼の性格や行為が残虐・非道であったため、雷帝という異名がつきました。

日本語では雷という訳を当てていますが、ロシア語のгрозный(グろーズヌィ)という形容詞には雷という意味はなく、威嚇的な・恐ろしいというのが語義です。

イワン雷帝は、周囲にいる者に対して日常的に残虐行為を繰り返していました。

臣下や侍女に特に落ち度が無くても、自分の機嫌が悪い時にそばにいたからというだけの理由で杖を振り回していた男でした。

この残虐性が自分の息子にまで向けられた時、取り返しのつかない悲劇が起きたのでした。


2. 流産


この絵画で描かれている殺人事件は1581年11月16日に起きたのですが、事の発端はその数日前に遡ります。

ある行事が開催されるにあたり、皇太子妃もその行事に出席することになっていました。

しかし妃はその行事当日、体調がすぐれなかったため略装でその行事に臨んだのでした。
実はこの時、皇太子妃は妊娠していました。

もちろん、周囲はそのことを知っています。
雷帝もです。

けれど略装で公の場に現れた妊娠中の皇太子妃を、あろうことか雷帝は杖で打ちつけます。

妃の出で立ちが気に入らなかったのか、あるいはただ単に虫の居所が悪い時にたまたま妃がそこにいただけなのか、いずれにしても雷帝には人を打ちつける理由など不要です。

打ちたければ打つ、ただそれだけの男です。
しかし、誰も逆らえない。

傍観者の立場にある者は、なぜ勇気を出して進言するなり謀反を起こすなり、何らかの行動に出ないのかと言うのですが、いろんなものを背負って生きている者にとってはそんな簡単に「実行」など出来ません。

また組織全体をがんじがらめにして自由な発言を封じ込め、周囲にいる者達が反逆を企図する意欲すらも奪ってしまう政治を行うからこそ、暴君と言えるわけです。

ここまで酷くないにしても、このような性格の上司に出会ったことがある人って結構いるのかも知れませんね。

この一件が原因で、妃は流産してしまいました。


3. 憤怒と傲慢の果て


父親であるイワン雷帝の暴挙によって妻が流産させられた後、皇太子は勇気を振り絞って父親に談判に行きます。

当然の抗議です。

いくら相手が恐ろしい暴君とは言え、夫たるもの愛する妻が痛手を負った出来事を看過することなど出来ません。

ところが雷帝は息子の抗議の言葉を聞いている内に癇癪を起こし、我を忘れます。

気がついたらいつものように杖を振りかざして、息子のこめかみを打ちつけていたわけです。
レーピンの絵画を見ればお分かりになると思いますが、この杖って長いですよね。

これだけの長さの杖を振り回して相手の体を打ちつけるには相当な腕力が必要でしょうし、足腰もしっかりしていないといけないはずです。

きっと、屈強な皇帝だったんでしょうね。
神はなぜこんな男に、権力と体力を与えてしまったのでしょうか?

どちらかが欠けていればこんな悲劇は起きなかったかも知れませんし、こんな「怖い絵」を天才画家が後世に残すこともなかったはずです。


4. Humpty Dumpty


絵画に描かれた表情を見る限り、雷帝に後悔の念はあるようです。
しかし彼はこの瞬間に至るまでの人生において、何度も同じようなことをしてきたのです。

横暴な振る舞いの犠牲になった相手が今回はたまたま息子だったというだけであって、これに近い行為は数限りなく何度も何度も繰り返してきたわけです。

この男は、反省という名の扉に手を触れたことはないんでしょうか?
懺悔という名の橋は、彼の目に入らないんでしょうか?

反省の扉も懺悔の橋も存在しないということはありません。
必ずあるんです。

雷帝が「そんなもの見たことはない」と言うのであれば、それは見ないようにしているだけ、目を背けているだけです。

誰の目の前にも、扉や橋はちゃんと存在しています。
遥か彼方ではない、すぐ手の届くところに存在しているのです。

イワン雷帝はモスクワ・ロシアの初代ツァーリ(皇帝)として、ロシア正教会の教えを信奉し教団を擁護する立場にもありました。

一方では神を畏れ、一方では命を軽んずる・・・。

彼はキリストの教えを、一体どのように解釈していたのでしょうか?
宗教から何を学んでいたのでしょうか?

地面に落ちた卵は、もう二度と元には戻りません。
どんな権力者でも、割れた卵を元通りにすることは出来ないのです。

この1581年のイワン雷帝による息子殺し事件は、ロシア人であれば誰でも知っている歴史的事実です。

日本人であれば誰でも本能寺の変(1582年)という歴史を知っているのと同様、民族の記憶の中に永遠に刻み込まれて行くことになるのでしょう。


5. 連続毒殺


1) 身内の死


イワン雷帝がこのような自己中心的な人格を形成していくに至ったのには、生来の粗暴・短気という人格的欠陥を備えていたこと以外に、母が毒殺されたこともその一因になっていると言われています。

さらに、最初の妃アナスターシャも毒殺されました。

彼の周囲では毒による危険が日常的に潜んでいて、人を信じることが出来ず気の休まる暇もなかったのでしょう。

妻を殺した犯人探しは、過酷を極めたようです。

当時のロシア宮廷を形成していた貴族たちは、怒声と暴力に怯えながらそれでも雷帝のそばで生きる以外に道がなかったのです。

「早く死んで欲しい。」

誰もがそう願ったでしょう。
雷帝の毒殺を検討した者も、いたかも知れません。


2) 雷帝の死


息子を殺した3年後の1584年、イワン雷帝は病に倒れもう二度と杖を持つことは出来なくなりました。

享年53歳でした。

雷帝の死後、暴力の象徴であったあの長杖はどのような運命を辿ったのでしょうか?
興味のあるところですが、私にはわかりません。


6. トレチャコフ美術館


この作品の原題は、ロシア語でИван Грозный и сын его Иван 16 ноября 1581 годаと言います。
モスクワのトレチャコフ美術館(Государственная Третьяковская галерея)で見ることが出来ます。

この絵は、寸法が200×254センチです。
圧倒的な存在感だろうと思います。

是非、実物を見たい絵です。

なおレーピン(1844-1930)は、同時代を生きたトルストイ(1828-1910)やムソルグスキー(1839-1881)らの肖像画を描いています。

トレチャコフ美術館に収蔵されているムソルグスキーの肖像画です。

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